第二十一話 着物の化粧の謎
直子の祖母が言っていた、着物の化粧について。なんだか気になったので、調べてみる。
まず、驚いたのは、普段のメイクでは着物とつり合わないという点だった。
着物の柄などが華やかなので、流行りのナチュラルメイクだと、バランスが悪くなる。
かと言って、派手過ぎてもダメ。あくまでも、着る着物に合わせることが大事だと、資料に書かれてある。
目元はぱっちり見えるよう、しっかりアイラインを引き、頬紅などはふんわりと淡く載せ、口元は明るい色を選ぶ。
今まで、着物を着る時は地味なメイクをしているのだと思い込んでいたので、陽菜子は驚いた。着物とメイクのバランスが取れていたので、違和感を覚えなかったのだ。
しかし、調べても調べても、特別な記述は見つからない。
直子の祖母は、いったい何を求めているのか。
自分の知識だけでは限界だったので、休憩時間に吉野へと質問してみる。
「すみません吉野さん、昔の世代の人の着物に化粧と言えば、何を思い浮かべますか?」
「お歯黒とかですか?」
「お歯黒って化粧なんですか?」
「そうですよ」
お歯黒は女性の身だしなみとして、明治時代まで残っていた習慣だということが発覚する。昔は黒い歯が美しいとされ、もてはやされていたのだ。
「始まりは弥生時代からなどとも言われていますね。平安時代では、成人した証に塗られ、戦国時代辺りまで、男女問わずお歯黒をしていたようです。江戸時代では既婚女性の証でもありましたが、農家などでは結婚式などの特別な日にのみ、塗るようになったとか」
お歯黒の材料はお茶の中に麹、酒などを混ぜ合わせ、その後鉄釘や針を入れて、二ヶ月ほど熟成させた物に、白膠木の葉に寄生してできる虫こぶより作られた粉末状の物を混ぜて作る。
「明治三年に、華族のお歯黒禁止令が出て、そこから一気に衰退したようですね」
「なるほど」
そんなお歯黒であったが、昭和初期まで残っていた地域もあったとか。
直子の祖母がお歯黒経験者だった可能性は高い。
メールにて、着物の化粧とは、お歯黒のことではないかと書いて送ってみた。
これで間違いないだろうと想定していたが、返事はNO。
がっくりとうな垂れる陽菜子。
調査はふりだしに戻った。
時刻は十七時前。
その日は花色衣に借りていた小物を返して直帰してもいいと言われた。本日が仕事納めであった。
編集長の鈴木は陽菜子を労う。
「鷹野さん、お疲れ様でした。色々と、助けてもらってありがたかったわ」
「いえいえ、まだ未熟で」
「そんなことないわ」
鈴木はバン! と陽菜子の肩を力強く叩かれた。
「雅の木綿着物企画も評判良かったし、この調子でどんどん企画を立ち上げてくれると嬉しいわ」
「はい、ありがとうございます」
陽菜子が企画担当を務めた木綿着物の特集が載った『雅』も先日発売となった。
まだ反応は読者の届いていないけれど、関係者からは好評だと聞いていた。
「まだまだ頑張ります」
「ま、ほどほどにね!」
「はい」
着物は奥が深い。陽菜子はもっと知りたいと思う。
「鈴木編集長、ふつつかものですが、その、来年もよろしくお願いいたします」
「こちらこそ!」
陽菜子は鈴木と笑顔で別れた。
◇◇◇
陽菜子は花色衣に借りていた小物を返すため移動する。
浅草の町は混雑しているのではと警戒していたが、想像よりも人通りは少なかった。
観光客よりも、忙しなく歩く人が目立つ。師走だなと改めて思った。
花色衣に到着すると、八月一日の妹弟子である白河が出迎えてくれた。
「いらっしゃいませ! あ、鷹野さん」
二人はすっかり顔馴染みとなっているのだ。
「ショーウインドーの着物、振袖になったんですね。思わず外で見惚れてしまいました」
「そうなんです!」
赤い生地に、枝垂れ桜と手毬模様の着物は店内の雰囲気がぐっと明るくなる。立ち止まって写真を撮る観光客も多いと言う。
「桐彦兄さんの力作なんですよ」
「八月一日さんの作品なんですね」
「はい!」
八月一日を呼んでくると言われて遠慮をしようとしたが、白河は店の奥へと消えて行った。
手持ち無沙汰にしていると、像毛色の御召に、深緑の角帯、同色の御召袴姿の八月一日が顔を出す。
「こんにちは、陽菜子さん。いらっしゃいませ」
「どうも」
今日、初めて袴姿を見たので、まじまじと観察するように眺める。
「袴なんて、珍しいですね」
「はい。今日、ちょっとお呼ばれがありまして」
男性の着物の種類は女性ほど多くなく、序列なども既婚、未婚関係なく身に纏う。
もっとも格式高いのは、染めの黒紋付きの羽織袴。次に染めの色紋付。
ただ、例外もあり、織り着物の中の御召は、色紋付と同等の礼装として着用できる。
これはかつて、十一代目の徳川家の将軍が好んで着たことで、高貴な方のお召物と周知され、現代でも礼装としての着用が許されるようになった。
「と、いうわけでして」
「へえ、面白いですね」
陽菜子はしっかり御召の話をメモに取った。そこで、隣に書いてあった――直子の祖母の「着物の化粧」の走り書きに目がいった。
ここで、八月一日にも質問をぶつけてみた。
「あの、八月一日さん、ちょっと気になることはあるんですけれど」
「なんでしょう?」
「着物の化粧で、何か特殊な物をご存知ですか?」
「特殊な物、ですか」
陽菜子は事情を軽く説明する。
友人の寝たきりとなった祖母が呟く「着物の化粧」。
着物を着て化粧したいというわけでもなく、お歯黒関係でもなく、白塗りでもなく。
「何か、着物と化粧が繋がる物があるのかなって、悩んでいまして」
「そうですね……あ。丹後ちりめんから作った化粧水とか」
「なんですか、それ?」
丹後ちりめんとは、京都府にある丹後地方で作られる高級絹着物で、生地の表面にシボと呼ばれる凹凸が付いた生地である。
「着物が、化粧水になるのですか?」
「はい。絹にはセリシンという成分がありまして、豊富な保湿成分があるんですよ」
「着物から、セリシンを抽出する、ということでしょうか?」
「ええ。水から抽出するみたいですね」
「なるほど」
ネットで調べると、すぐにヒットした。
「うわ、本当にありました」
「ちょっとびっくりしますよね」
「はい」
陽菜子は一言断りを入れ、その場で直子にメールを送る。どうか、これが正解でありますようにと願った。
「八月一日さん、ありがとうございます」
「いえいえ。探している物が、ちりめんの化粧品だったらいいですね」
「はい」
ちりめんの化粧水――陽菜子も気になるので、買ってみようと心に決めた。
まだ返答は聞いていないが、問題はひとまず片付いた。ホッと安堵する。
時刻は十八時半。そろそろ帰るかと、踵を返そうとしたが、ふと思い出す。
「八月一日さん」
「はい?」
「えっと、この前の、簪、ありがとうございました」
「いえいえ」
きちんとお礼を言えていなかったと、改めて頭を下げる。
高価な簪。気持ちに応えるつもりがないのならば、返すべきだと友人達より助言を受けていたが――陽菜子は腹を括った。
「どんな髪型に似合うとか、どうやって挿そうとか、いろいろ考えています」
「そうでしたか。よかったです」
「あの、大切にしますので」
八月一日は返答の代わりににっこりと微笑む。
カッと顔が一瞬にして熱くなるのがわかった。動悸も激しくなる。
陽菜子は心臓に悪いと思い、即座に踵を返した。
「では、陽菜子さん、駅まで送ります」
「いえ、いいです。ご遠慮します!」
「ですが、もう外は暗いですし」
「走ります」
「え?」
「では、また年末に!」
陽菜子はそう言い残し、花色衣を出る。
どくんどくんと鼓動を打つ心臓を押さえながら、全力疾走をしたのだった。




