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第十六話 和裁士のお仕事

「あの、木綿着物についてお聞きしたいのですが……」


 仕事に関することでなく、プライベートなことなので、話せないのならば断わって欲しいと前置きした。

 今まで、『雅』関連の仕事をする上で依頼料を払い、八月一日ほづみに着物の話を聞いてきた。

 着物のお手入れ方法や、余った生地で小物作り、和裁講座など雑誌に載る企画はどれも好評で、ファンも多い。

 顔見知りだからと、無償で相談することは気が引けたのだ。


「なるほど。そういうわけですか。確かに、知り合いに軽い気持ちで着物について相談されたのならば、お断りいたします。私も食べていけなくなるので」

「ですよね……」


 八月一日ほづみは話す。和裁士というのは世間的にはあまり名を聞かない職業で、着物を縫う華やかな業界だと思われることは多いが、そんなことはなく、労働と賃金の割が合わない仕事であると。


「花色衣は歩合制ではないので、そこまで賃金について不満はありませんが、他所は大変な苦労をされている和裁士の方も多いです」


 和裁士の仕事である仕立てやクリーニングなどは、目には見えない裏方の仕事である。仕事を斡旋してくれる呉服屋との関係も重要となり、営業面でも苦労が多い。


「華やかな振袖などは、単価を下げるため海外工場製も多くなり、和裁士への依頼も減りつつあります」


 着物に対する意識は時代と共に変わりつつあり、海外でも大量生産されるようになった。そんな中で、和裁士に依頼される仕立ては、縫うのに高い技術が必要となる織物が中心となる。


「海外で従業員を低賃金で雇い、専門的な技術を教えて仕立てを行うのです。当然ながら、こちらで作るよりも安く仕上がりますし、お値段もお手ごろになります」


 近年、海外製の着物は珍しくもなくなったという話を聞いて、陽菜子は驚いた。

 同時に、着物業界については、まだまだ勉強不足であったと痛感する。


「そんな状況ですので、仕事のメインは着物のクリーニングなんです。花色衣では、それを売りにしているところもありますが。仕立てに関しましては、男物の着物や喪服を延々と一ヶ月縫い続けるなんて仕事もしていました。こう、なんていうんでしょうか。個人的には美しく、綺麗な着物を縫いたいんですよね。我儘でもあるのですが」


 地味な作業の連続で、視力はどんどん低下し、内職をしているような気分になることもあると八月一日ほづみは言う。

 出版社との仕事を始めたのも、将来の独立資金を貯めるためであり、人脈を作るためであると語る。けれど、上手くいくことばかりでもなく――


「なんて。すみません、つい愚痴を」

「いえ……」


 陽菜子は意外に思っていた。八月一日ほづみは他人に弱みなど、絶対に見せない人だと思っていたからだ。


「すみません、和裁士の仕事を、華やかなものだと勘違いしていました」

「いいえ。私は華やかだと思われていたほうが嬉しいです。まあ、他人には、ですが。今日、この瞬間に、陽菜子さんにご理解いただけたことを、とても嬉しく思います」


 それを話したうえで、八月一日ほづみは問い掛ける。


「それで、木綿着物のご相談とは?」

「え?」

「悩んでいるのでしょう?」

「で、でも……」


 木綿着物については、八月一日ほづみの言う通り悩んでいた。

 どうやったら、母親に興味を持ってもらえるのではと。しかし、先ほどの話を聞けば、後日花色衣に行って、お店で話をするのが正解なのではと考え直していたのだ。


「他人に軽い気持ちで相談されるとムッとしますが、陽菜子さんは違います。特別です」

「いや、それもどうなんだろうかと」


 特別扱いされても、陽菜子に返せるものはない。

 新人なので出版社の伝手もなく、企画も通す実力などもない。さらに、『雅』の編集部に所属するのは一年という約束だったのだ。


「私は、この場でお返しできる八月一日ほづみさんへの対価はありませんので」

「いいえ、一つだけあります」

「それは?」


 俯かせていた顔を上げると、真面目な顔をした八月一日ほづみと目が合う。

 なんだが恥ずかしくなって顔を逸らしそうになったけれど、それも失礼に当たると思い、必死に耐えた。

 八月一日ほづみが言う、陽菜子が返せる対価とは――


「この先一生、陽菜子さんが着る着物を作らせてください」

「え?」

「花嫁衣装である白無垢に、お色直しの色打掛、黒留袖に色留袖、訪問着に、付け下げ、色無地など」

「いや、私、そんなに作っていたら、破産します」

「反物はお祖母様が捨てるほどあるとおっしゃっていましたが?」

「そ、それは私の反物じゃないでしょう」

「では、木綿でもいいですよ。仕立て代込みでも、価格はそんなにしませんし、みなさん私服感覚で着ています」

「価格はそんなにって、絹着物と比べてですよね?」

「まあ、軽く見積もって十万ちょっとくらいですね」


 一着十万もする上に私服なんてと、呟く陽菜子。

 八月一日ほづみは補足で、安い木綿の反物も探せばあると伝えた。


「今の時期は木綿がいいですよね。肌触りがいいですし、寒くても重ね着できます」


 縞模様など、男性的な柄も木綿ならば色っぽく着こなすこともでき、シンプルな美しさがあると八月一日ほづみは熱く語る。


「お手入れも簡単ですしね。洗濯機も大丈夫なんですよ」

「え!? てっきり手洗いかと思っていました」

「ちょっとコツがありましてね」


 袖たたみという、袖口と裾が外に出る畳み方をして、ネットに入れて洗うのだと、八月一日ほづみは説明した。懐よりハンカチを取り出し、畳み方を教えてくれる。不器用な陽菜子にもできそうだった。


「ポイントは脱水の時間を短くすることですね」

「……なるほど」

「干す時は着物ハンガーに掛け、しっかり皺を伸ばします。あと、風通しの良い場所で陰干しにしてくださいね。木綿は縮みますので。湯通し――生地の縮みを少なくする加工などもオススメいたします」


 それから、着崩れのしにくいことや、絹の着物に比べて動きやすいこと、生地は柔らかくて軽いことなど、木綿着物にはたくさんの魅力が詰まっていた。


「縮む心配もなく自分で洗えるのならば、一着くらい、と思いますよね」

「でしょう?」


 八月一日ほづみは言う。木綿着物の魅力をわかってもらえたかと。


「ええ、そうですね。冬のボーナスが出たら、一着くらい――あ!」


 ここで陽菜子は気付く。結局、八月一日ほづみに木綿着物についての説明をさせてしまったことを。


「すみません、私……」

「陽菜子さんの聞きたかったことは、木綿着物の魅力についてで正解でしたか?」

「え、ええ。正解です」


 八月一日ほづみは言う。陽菜子が一着買う気持ちになってくれたのならば、嬉しいことだと。


「お祖母様と、何かあったのですか?」

「はい。正確には、母と祖母なんですけれど」


 陽菜子はポツリ、ポツリと、母娘の確執について語り始めた。

 陽菜子の母初恵は古風な幸恵の教育により、幼少時代より着物の着用を強いられた。互いに頑なな性格で譲歩することも知らず、仲はどんどん険悪になる。

 しだいに、厳しい母親の象徴たる物が着物というイメージとなり、激しく嫌うようになって今に至るのだ。



「それは――難儀ですね」

「ええ。できれば、仲良くしてほしいと思っているのですが……」


 けれど今日、木綿着物の魅力をたくさん教えてもらった。根気強く伝えれば、どうにかなるのではと陽菜子は思っている。


「しかし、厳しいかもしれませんね」

「はい? 今、なんと」

「いえ、なんでもありません」


 八月一日ほづみが何か呟いたが、聞き取れなかった。

 陽菜子は母親への電話のことで頭が一杯だったので、追及することはしない。


 ここで、デートは終了となる。

 陽菜子は八月一日ほづみに深々と頭を下げ、別れることになった。


 ◇◇◇


 夜、勇気を出して母初恵に電話をした。

 二回のコールで、「もしもし」という声が聞こえた。


「あ、母さん。私、陽菜子」

『ええ、掛かってきた携帯の画面を見れば、ひと目でわかるわ』


 初恵の不愛想な具合は相変わらずである。陽菜子は激しく鼓動を打つ心臓を押さえつつ、話し始めた。


「ちょっと今日、良い物を見つけて――」


 陽菜子の作戦は、呉服店でいい品を見つけた。それは木綿の反物だった。お手頃な値段で仕立てることができ、自宅で洗濯も可能。ちょっと興味がある、という話をしようと考えていた。いきなり本人に勧めても、受け入れることはしないだろうと思ったからだ。


「あの、木綿の着物なんだけど」

『木綿の着物ですって!?』


 突然、金切り声を上げるように過剰な反応を示す初恵。


「え、どうかした?」

『どうもこうも、今年の二月の上旬くらいに、母さんが私になんの断りもなく着物の反物を贈ってのよ』


 それが、あろうことか着物の反物だったと。

 ひと目で木綿とわかり、安物を贈ったと初恵は激怒していた。


「え、でも、母さん、木綿の着物は凄く良くて――」

『ええ。あなたぐらいの若い娘なら咎めることもしないでしょう。でも、この年になると、その人の評価は身に着ける所有物までも含まれるの。安物を身に着けていれば、安っぽい人だと思われるのよ』

「いや、それはいくらなんでも、言い過ぎなんじゃ……」

『そんなことありません! 陽菜子も若さに頼って、安物ばかり身に着けるのではありませんよ!』


 電話口だったが、陽菜子ははぁと溜息を吐いた。

 幸恵と初恵は似た者同士なのだと、陽菜子は思う。

 どこまでも理想が高く、折れないプライドを持っているのだ。二人共、それを誇りにしている。


 そんな母娘がわかり合うのは、難しいのではと思ってしまった。


 けれど、わからないこともある。

 なぜ、幸恵は木綿の反物をいきなり送り付けたのかと。

 わざと送り付けたようには思えなかったのだ。


「……ごめん、母さん、また今度ゆっくり話をしよう」

『あなたと話すことなんてないわ!』


 ブツリと電話を切られ、陽菜子は苦笑するしかなかった。

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