第十五話 色鮮やかに、染まる
どじょうを食べたあと、あんみつか何か食べに喫茶店に行こうと提案したが、幸恵からすげなくお断りされる陽菜子。
「浅草は休日も人が多いですね。なんだか疲れてしまいそうで」
幸恵は家に帰ると言う。
「あ、だったら私も――」
「いいえ、このままタクシーで鎌倉まで帰ります」
幸恵はピシリと言い放ち、振り返って凛と微笑む。
「あとは、若いお二人で」
「え!?」
幸恵はタクシーを止め、乗り込んだ。そして、窓を開いて一言。
「八月一日さん、陽菜子さんのことをよろしくお願いいたします」
「お任せください」
「ちょっ!」
「何を言っているのだ」と八月一日にツッコミを入れたくなったが、幸恵がいる手前なので言えない。
「それでは、ごきげんよう」
優雅に手を振り、遠ざかっていく幸恵。
陽菜子は呆然としつつ、見送った。
「さて、腹ごなしでもしますか」
「はぁ!?」
ぐるりと振り返り、八月一日を睨みつける陽菜子。目が合えば、目元は優しく細められる。
ドクンと胸が高鳴り、何も言えなくなった。
「疲れていますか?」
駅まで送るかと聞かれ、陽菜子は首を横に振る。満腹状態だったので、歩いて腹ごなしをすることにした。
隅田川沿いを歩いていく。
さすがに、この辺りは観光客でごったがえしていることはないが、ランナーと数名すれ違った。屋形船も停められており、下町の風情がある。
並木は紅葉し、青空に映えていた。
「春は桜が綺麗なんですよね、ここ」
「私も入社一年目に、場所取りに行かされました」
ファッション雑誌『minet』のお花見は毎年行われており、関係者なども招待するので、五十名ほどの大所帯の催しとなっているのだ。その規模の場所を確保することは、大変な苦労だった。
花見は行きたいけれど、人混みはこりごり。ゆっくり花見をしたいものだと、呟く陽菜子。
「でしたら、良い場所があるんです。ここではないのですが、花見の穴場がありまして」
「へえ、そうなんですね」
今まで、誰にも教えたことがない秘密の場所だと八月一日は話す。
「来年、お誘いしてもよろしいでしょうか?」
八月一日の言葉に驚き、陽菜子が歩みを止めれば、強い風が吹く。
赤く紅葉した葉が、ひらりひらりと舞い上がった。
真紅の葉と、八月一日の着物が重なり、陽菜子はハッと息を呑む。
秋色の着物は紅葉の葉によって色に深みが増し、美しく映えていたのだ。
それは、今まで見たこともないほど綺麗な光景で――
ここで、大学時代の友人絵美里の言っていた、松尾芭蕉の紀行文を思い出す。
――像、花にあらざる時は夷狄にひとし。心、花にあらざる時は鳥獣に類す。夷狄を出で、鳥獣を離れて、造化にしたがひ、造化にかへれとなり
花が美しく見えないのならば、野蛮人と同じ。心に思う花が花でなければ、鳥獣と同じ。一度、まっさらになって、自然のありように従い、自然を知るべきという意味の言葉だ。
陽菜子は今、着物が綺麗だと心から思った。
獣の心はきちんと人に戻っていたのだと、実感し安堵する。
「陽菜子さん、大丈夫ですか?」
「あ、はい、すみません、平気です」
顔を覗き込まれて、カッと頬が熱くなるのを感じる。
八月一日が近くにいると、胸がドキドキと高鳴るのだ。
ここで、陽菜子は気付く。もしかして、目の前にいる男のことが、好きなのではないかと。
「――いや、ありえない!!」
「やっぱり、青森はだめですか?」
首をぶんぶんと横に振っていたが、独り言に対して返された言葉を聞き、目が点となる。
「青森?」
「はい。桜の穴場、青森なんです」
「なぜ、青森……?」
「あれ、この前話したような――あ、お酒の席での話でした」
八月一日の実家があるのは青森県の弘前市。十年ほど帰っていないと言う。この前居酒屋で話したことだと言う。
陽菜子はお酒を飲んでいたので、聞いた話を綺麗に忘れていたのだ。
「でも、ぜんぜん訛ってないけれど……?」
「両親は埼玉出身なんです。父の転勤で青森に行ったらしくて」
「そ、そうなんですね」
青森と言えば世界遺産である白神山地があり、郷土料理のせんべい汁や、大間のマグロ、帆立の味噌貝焼き、生姜味噌おでん、ウニとアワビを使ったいちご煮など、美味しい物もたくさんある。
桜を見に行くついでに、行くのもいいかなと思った。
「青森のどの辺にあるんですか?」
「実家です」
「はい?」
「弘前にある、私の実家です」
それを聞いた途端目を見開き、「はぁ!?」と口にしてしまう。
「どうか、軽い気持ちでいらっしゃってください」
「いやいや、十年も帰っていない人様のご実家になんて、行けるわけないです」
「大丈夫ですよ。両親には陽菜子さんですって、一言紹介するだけですから」
「無理です!」
三十二の八月一日と二十五の陽菜子。良い年頃の二人が揃って行けば、勘違いをされるだろうと指摘した。
「まぁまぁ、いいじゃないですか。小さなことは気にせずに、まったりとお花見しましょう」
「気にします! そんな中でまったりできるほど、神経太くありません!」
せっかく、秋風の中でいい雰囲気になっていたのに、ぶち壊しにする八月一日。
額に寄っていた皺を指先で伸ばしつつ、陽菜子ははぁと溜息を吐いた。
◇◇◇
その後、二人は喫茶店で休憩する。
あんみつのお店は混んでいたので、近くにあったホットケーキのお店にした。
陽菜子は紅茶とホットケーキ。八月一日はコーヒーとホットケーキを注文する。
「八月一日さんも甘党なんですね」
「はい、そうですね」
じっと、何かを問われるように見つめられる。
「何か?」
「いえ、どなたと比べているのかなと」
「ああ、会社の人です。この前、一緒に取材に行ったのですが、凄くたくさん甘い物を食べていて……」
六十六歳、契約社員の吉野。物腰は丁寧で、着物について詳しく、いつでも紳士な男性だ。
八月一日が老人になれば、吉野のようになりそうだなと思う。
想像すれば、ちょっと笑ってしまった。
「その方のこと、好きなんですね」
「はい。尊敬しています」
珍しく、顔を顰める八月一日。いつもニコニコしているので、そのような表情を見せることなど珍しかった。
「どうかしましたか?」
「いえ、複雑だなと」
「何がでしょう?」
「陽菜子さんは、後藤さんみたいな人が好みなのかと思いまして」
「え?」
後藤弘。あおい出版着物専門雑誌『雅』編集で、身長は百八十五と高く、顔は強面。八月一日とは真逆の、堅い雰囲気のある男性である。
以前、陽菜子が撮影の差し入れにチーズタルトを持って行き、後藤に舌打ちされた話は随分と前の出来事のようだった。
「後藤さんが好み? まさか!」
ナイナイと、首を横に振る。
なぜ、後藤の名を出すのかと問いかけた。
「雅の編集部で甘党なのは後藤さんだけだと思っていましたが?」
「違います。吉野さんですよ」
「え?」
打ち合わせのさい、後藤はあんみつを三杯食べたこともあるほど甘党だと言う話を、八月一日より聞いて驚く。
「っていうか、後藤さん甘党なんですね。私が甘い物を差し入れしても、顰めっ面で受け取るのに」
「なるほど。先ほどのお話の相手は後藤さんではなく吉野さんで、職場の先輩として尊敬していると」
「そうです」
他にあるのかと聞けば、にっこりと微笑んで誤魔化す八月一日。
「あ、陽菜子さん、ホットケーキがきましたよ」
「あ、わっ、凄い、これ!」
ふかふかに焼かれたホットケーキが二枚、積まれていた。
上にはバターの欠片が落とされている。お好みでメープルシロップか蜂蜜を掛けるのだ。どちらにしようか迷ったが、今回はメープルシロップを選んで垂らした。
陽菜子はナイフとフォークを手に取り、ホットケーキの表面に刃を入れた。ふっくらとした生地から、甘い香りが漂う。
二枚一緒に切り分け、一口で頬張る。
表面はサクッ、中はふんわり。メープルシロップとバターが沁み込んだ生地は、甘じょっぱくて美味しいのだ。
「陽菜子さん、美味しいですか?」
「美味しいです!」
微笑む八月一日と目が合い、我に返る陽菜子。
小さな子どもじゃあるまいしと、照れてしまう。
ここで、八月一日に相談事があったと思い出す。
居住まいを正し、木綿着物について話を聞いてもらうことになった。




