第十二話 鈍い陽菜子
日曜日の朝、陽菜子に一本の電話が掛かって来る。時刻は七時半。まだまだ眠っていたい時間帯であったが、なり続けるコールを無視するわけにはいかない。
「う~~ん」
寝台傍の円卓に置かれたスマホを手に取り、充電器を引っこ抜く。いったい誰かと溜息を吐きながら画面を覗き込むと、そこに表示されていた名前は――『幸恵お祖母ちゃん』
「――うわっ!」
陽菜子は飛び起きて、スマホの受話器のマークをタップした。
「も、もしもし」
『おはようございます、陽菜子さん』
「お、おはようございます」
祖母幸恵の声を聴いていたら、自然と布団の上に正座し背筋を伸ばしてしまう。
しばし近況を語ったのちに、本題となった。
『この前、浅草にどじょうを食べに行く約束をしましたね』
「はい」
『いつが空いていますか?』
「えっと、土日だったらいつでも」
『でしたら、来週の土曜日のお昼などは?』
「大丈夫」
スマホを耳と肩の間に挟み、鞄の中から手帳を取り出して、来週の土曜日の空白に「祖母とどじょう」と書き込んでいく。
『どじょうの旬は夏だったんですけれど』
「残念。食べたかったなあ……」
夏はいろいろとバタついていて、出かける暇がなかった。二度ほど、幸恵の誘いも断ってしまったのだ。
やっと約束が果たせると、安堵する陽菜子。
これで話は終わりと思いきや、幸恵は思いがけないことを言ってくる。
『八月一日さんにも声を掛けておいてくださいね』
「はっ、ええ!?」
『この前仕立てていただいた紬の着物、とっても素敵で、着て行って見せようかなと』
一瞬、思考が停止する陽菜子。すぐにハッと我に返る。
「え、着物、作ってもらったの?」
『はい。良い反物がありましたので』
「いやいや、ちょっと待って。なんで八月一日さん?」
『お店にあった着物が素敵でしたので。……あら、もしや、私と会わせたくないのですか?』
「そ、そうじゃなくて」
幸恵は陽菜子と八月一日が交際をしていると、勘違いしているのだ。
「あの、私と八月一日さんは――」
『安心なさって。他の人にはまだ黙っていますので。それより、この前もいろいろとお世話になったのでしょう?』
「それは、うっ、そうだけれど」
陽菜子は友人とのごたごたに、八月一日を巻き込んでいたのだ。食事を奢るつもりだったけれど、一緒に行った居酒屋では泥酔した挙句奢られてしまった。
『じゃあ、決まりですね。今日、聞けますか?』
「どうだろう。お店って土日が一番忙しいんじゃないかな?」
『でしたら、水曜日までに聞いておいてください。予約も、その頃くらいまでならば大丈夫ですから』
「……はい」
ここで、やっと電話から解放される。はぁと、大きな溜息。
一度、幸恵に八月一日との仲の誤解を解く必要もある。それは、早いほうがいいとも。
良い機会だと思うことにした。
とりあえず、二度寝しよう。そう決めて横になったけれど、八月一日に電話をしなければいけないことが気になり、なかなかウトウトできず。
三十分ほどゴロゴロしていたが、眠れないと判断。起きることにした。
歯磨きをしつつ、朝食を準備。まずは電気ケトルに水を入れ、台座に置いてスイッチオン。それからフライパンに油を敷き、ハムを二枚入れて片手で卵を割る。殻がちょっと入った上に、黄身も崩れた。ながら作業はするものではないなと思いつつ黒胡椒を振る。トースターにチーズを敷いた食パンを入れ、洗面所へと戻る。うがいをして、顔を洗う。
台所に戻れば、若干焼け過ぎたハムエッグが完成していた。
トーストは端が若干焦げていたので、包丁で黒くなっている部分を削いだ。
スティックタイプのインスタントコーヒーをカップに注ぎ、スライスチーズの載った食パンにハムエッグを乗せ、リビングに移動。
ぼんやりと、朝の番組を眺めながら、ハムエッグトーストを齧った。味はなんともいえない。美味しくもなく、不味くも無く。敗因は卵の黄身の崩壊と、焼き過ぎだった。
朝食後は洗濯をして、部屋の掃除をする。一週間放置されていた部屋は、いささか埃臭かった。少し肌寒いけれど、窓を全開にして空気の入れ替えもする。
本日は晴天。洗濯日和である。陽菜子は溜めていた洗濯物を干し、スッキリとした気分になった。スーツやブラウスなどもクリーニングに出したら完璧だ。
出かける前に、陽菜子には大仕事があることを思い出す。スマホを握りしめ、アドレス帳をスライドして開いた。
八月一日の電話番号は二つある。仕事用とプライベート用だ。
どちらにするか迷った挙句、結局プライベート用に掛けてみることにした。
はぁと大きく息を吸い込んで、吐き出す。腹を括り、八月一日の電話番号を力いっぱい押した。
どうぜ、土曜日など仕事だろう。サックリと断られて、幸恵とのんびりどじょうを食べたい。留守番になったら、土曜日暇だったら連絡を折り返すように言おう。そう考えていたら――
『はい、八月一日です』
声を聞いた瞬間、胸がドクンと高鳴る。思い返せば、話をするのは一ヶ月ぶりだった。
なぜ、このように緊張しているのか、陽菜子にはわからない。
『陽菜子さん?』
「あ、そ、すみません。い、今、電話大丈夫ですか?」
『ちょっと待ってくださいね。今店にいますので、外に出ます』
「いや、忙しいんだったら、大丈夫です」
『休憩時間なのでお気になさらないでください』
休憩室には妹弟子の白河と師匠である望月がいるので、会話が筒抜けだと話す。
八月一日以外の男性の声が聞こえてぎょっとした。「おい、桐彦、女か!」という、からかいの言葉が聞こえたのだ。陽菜子は何も喋らずに、大人しくしておく。
『――すみません、お待たせしました』
「こちらこそ、急に掛けてしまい、申し訳ないなと」
『いえいえ、とんでもないことでございます』
なんの用事かと聞かれ、陽菜子は早口で土曜日の予定について尋ねた。
『土曜日ですか』
「はい。そ、その、祖母が、どうしても八月一日さんと一緒にどじょうを食べたいと言っていて」
『ああ、どじょうですか。美味しいですよね』
食べたことはないので、陽菜子は知らない。
『なるほど。陽菜子さんは初めてですか』
土曜日、八月一日は仕事だと言う。それを聞いた瞬間、ホッとするよりも、残念だと思ってしまった。
その感情に気付き、陽菜子は首を横に振って否定する。
『陽菜子さん、どうかしましたか?』
「いや、なんでも、ないです」
仕事中、急に誘ってしまい、申し訳なかった。そう言って電話を切ろうとしていたのに、
八月一日は想定外のことを口にする。
『では、有給を取りますので、正式に決まったらこちらから電話しますね』
「え? 大丈夫なんですか?」
『有給使えって、突かれていたんです。用事もないのに休むのはどうかと思っていたので、ちょうどよかったです』
「そ、ですか」
『ではまた。誘って下さり、ありがとうございました。楽しみにしていますね』
「あ、はい。こちらこそ」
ここで電話は終了となる。しばらく、陽菜子はぽかんとしていた。
数分後、我に返ると、自らの心の変化に戸惑いを覚えた。
なぜ、八月一日の声を聞いてドキドキしたのか。
なぜ、八月一日に断られると思って、がっかりしたのか。
恋愛経験がほとんどない陽菜子はすぐにピンとこない。
しばらくうんぬんと考えていたが、お腹がぐぅと鳴り、思考停止する。
とりあえず昼食を作ろう。
冷凍庫の中にうどんがあるので、野菜と炒めて焼うどんにしようと心に決める。
空腹のおかげで、八月一日への気持ちはどこかへ飛んで行ってしまった。
なんとも残念な話である。




