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第十話 八月一日桐彦の、影なる奮闘

 四月――桜の木々が淡く色づき、満開の花を咲かせる季節。

 真新しい制服で道を歩く学生に、慌ただしく商いをする商店、観光でひと際賑わう浅草の町。

 このようにして、下町の四月は忙しなく過ぎていく。

 ただ、その中でも着物の仕立てとクリーニングを生業とする『花色衣はないろころも』だけは通常営業。

 春だからとセールをするわけでなく、他の商店のようにのぼりを掲げて観光客を招くわけでもない。

 いつもとおり、常連からのクリーニングを引き受けるばかりであった。

 これは、店主のこだわりでもある。

 目が回るほど忙しくなれば、一つ一つの仕事の精度が落ち、仕事も雑になる。一年中、同じだけの仕事量を行うべきだ。と、常々語っている。


 浅草和裁工房 花色衣の従業員は七名。

 店主の望月健もちづきけん、七十になる大ベテランの和裁士である。

 それから望月の息子、秀夫。四十二歳。

 弟子の八月一日桐彦ほづみきりひこに、白河春香しらかわはるか

 他、事務員が二名ほど。


 八月一日ほづみは知り合いの伝手で、出版社からの依頼も複数こなしている。

 比較的、のんびりとした営業をしている花色衣は、編集の無茶振りに応えやすい。なので、よく仕事を頼んでくるのだ。


 風が強く桜散る中、本日もあおい出版の取材を受けに、馴染みの甘味処『小虎堂』へと向かう。


 今日やって来るのはバイトか。それとも、契約社員の吉野か。ほうじ茶を啜りながら、ぼんやりと考える。

 今回、仕事の依頼があった着物専門誌『雅』の編集部は、仕事がしやすい。たまに、撮影に使う着物も貸し借りする仲でもある。

 編集長の鈴木が来たならば、今縫っている、店頭展示用の浴衣を雑誌に載せてもらえないかと、頼み込むつもりだった。

 けれど、八月一日ほづみのあては外れる。やって来たのは若い女性だった。


 ガラリと店の戸が開き、カツカツと靴の踵の鳴る音が聞こえた。この地点で、鈴木ではないと気付く。かの敏腕編集長は、いつもスニーカーなのだ。


 声を掛けて来た女性は、鈴木の代わりでやって来た鷹野だと名乗る。

 鷹野はボブカットの派手な茶髪に、イマドキっぽいパンツスタイルで、八月一日ほづみに対し、ぎこちない表情を向けていた。

 まず、背の高さに驚いた。読者モデルでもやっていそうな、すらりとした体型である。アーモンド型の目に、真一文字に結ばれた桜色の唇。それから、僅かに漂う警戒心。

 すぐに、こういう取材慣れをしていないと感じた。多分大学生だろうと、八月一日ほづみは思ったが、外れた。鷹野は『minetミネ』という女性ファッション雑誌の編集で、鈴木の代理でやって来たと話す。

 失敗した。ただでさえ、漂っていた警戒心が、全開になってしまった。失言だったと、反省する。

 素直に「綺麗なお嬢さんだったので、勘違いをしてしまった」と謝罪したが、鷹野の表情が和らぐことはない。

 斬りつける刃のように鋭く手渡された名刺には、『あおい出版 第八編集部 鷹野陽菜子』と書いてあった。下部には、『minetミネ』のロゴが印刷されている。


 ――なるほど、猫ちゃんミネか。


 アーモンド型の目を細め、挑むような目付きをしていた鷹野。その姿は、誰にも懐かない猫の姿そのものだと感じた。

 どうすれば警戒心を解いてくれるのか。何か気の利いた話題をと真剣に考えるが、小物や服装、化粧など、爪先まで一切隙がない。さすが、ファッション雑誌の編集と心の内で感嘆する。

 そんな鷹野であったが、ふと気付いた。非常に綺麗な首筋をしていると。肌も白く、黙っていれば楚々とした雰囲気がある。華道か茶道をしていたのか、背筋もピンと伸び、現代人には珍しく姿勢が良かった。

 八月一日ほづみは思う。彼女はどんな着物が似合うだろうと。

 通常、着物が似合うのは黒髪でなで肩、長すぎない脚と言われている。日本人の女性がもっとも美しく着飾れる服が着物なのだ。

 一方で、陽菜子は日本人離れした体型で、髪色は派手。ネコ科動物を思わせるアーモンド型の目は、大和撫子とは程遠い雰囲気である。

 けれど、どうしてか気になってしまった。そんなことを考えているうちに、目が合う。

 着物を着てみないかと、誘ってみた。普段、営業以外で初対面の女性にこんなことなど言うことは絶対にない。が、好奇心が勝り、口にしてしまったのだ。

 結果、鷹野の警戒心は最大値まで跳ね上がり、刺々しい態度に拍車が掛かる。

 再度、失敗したと反省する八月一日ほづみであった。


 と、このように、出会いの場では二人の息が合わずにちぐはぐ。向こうからの印象は最悪だろうなと、想像できていた。

 逆に鷹野陽菜子という人物は、着物の知識はまったくなく、取材の態度も褒められるものではなかった。けれど、八月一日ほづみは悪い感情はいっさい抱いていない。それどころか、興味津々であった。こういう態度になってしまったのは、自らの失言が原因だとわかっていたからだ。

 それでも、仕事中に感情を剥き出しにすることはよくないが、鷹野はまだ若い。それに、ここに代理で来たことについては、何やら出版社側の事情がありそうだった。

 よって、評価はやや甘めとなっている。


 そんなことよりも、八月一日ほづみは鷹野に着物を着てほしい。どんな柄が似合うのか、どんなかんざしを挿して、どんな髪型をすれば全体的に映えるのか。気になって仕方がなかった。

 初めて抱くこの感情を、この時は『職業病』だと決めつけていた。


 ◇◇◇


 鷹野との付き合いはその場限りではなかった。彼女は『雅』の編集部に異動となったのだ。

 出会った時はまったく着物についての知識はなかったものの、二度目からはきちんと勉強していたのか、話にもついてきた。わからないことは素直に質問する姿勢にも、好感を抱く。


 仕事はスムーズに終わった。

 雑談でもと思っていたが、鷹野はすぐに立ち上がり、綺麗なお辞儀を見せてあっさりと帰ってしまった。


 手を伸ばせばするりといなくなる。本当に、猫のような人だと八月一日ほづみは思う。


 またしばらくは会えない。そう思っていたが、鷹野との再会はすぐに訪れた。

 八月一日ほづみの勤め先だと知らずに、花色衣へとやって来たのだ。

 驚く鷹野。アーモンド型の目は見開かれている。


 彼女は祖母の着物について相談するために、花色衣へ足を運んだ。


 その縁をきっかけに、鷹野との交流が始まる。


 空手をしていて、目潰しをしてやると宣言された時は笑った。

 まさか、武術の嗜みがあるとは想定もしていなかったのだ。

 それから、仕事熱心な姿勢には、舌を巻く。派手な見た目に反して熱血なところがあり、鷹野の手帳は着物について勉強したことがびっしりと書き込まれていたのだ。

 八月一日ほづみの言葉を一言も聞き逃さないよう、ペンを持って熱心に見つめる様子は、仕事ではなかったら良かったのにと思うほど。


 着物の話をする間は、八月一日ほづみと真摯に向き合い、たまに、尊敬の眼差しのようなものを受ける時もあった。

 けれど、それはほんのひと時で、用事が済めばすぐにいつもの鷹野となる。

 魔法のようだと思った。解けるのが、いつも早すぎるのだ。


 そこで、ふと気付き、今までの感情がストンと腑に落ちる。

 八月一日ほづみは鷹野に一目惚れをしており、会うたびに惹きつけられていたのだと。


 けれど、自覚したからと言って、何か行動に出ることはしなかった。

 今まで女性と付き合うことはあったが、仕事を優先していれば、なかなか時間を作ることは難しく、結局すれ違う時間も長くなって、結果別れるというパターンが続いた。


 相手はいつだって八月一日ほづみに期待をするのだ。

 優しそうに見えるので、きっと自分を第一に想い大切にしてくれるだろうと。

 そう思って近付いて来るので、深く知って現実を目の当たりにすると、がっかりしてしまうのだ。いつも仕事優先で、冷たいところがあると。


「――私って、冷たそうに見えますかねえ」


 いろいろあって、鷹野と居酒屋で酒を飲むことになった席で、八月一日ほづみはぽつりと呟く。

 注文した酒が届かず、シンと静かな中だったので、つい口にしてしまったのだ。

 鷹野はテーブルに肘を突き、目を細めながら言った。


「別に、普通じゃないですか?」

「普通、ですか」


 よく優しそうだとか、温和で怒らなそうだとか、言われると自己申告する。


「私との初対面の時は、いじわるでしたよ」

「そうでしたっけ?」

「そうでした」


 初対面で何を話したか。熱心に着物を勧めて、冷たい反応をされた記憶しかない。

 どの部分がいじわるだったか質問をするも、ふいと顔を逸らされてしまった。


「でも、なんでそんなことを?」

「いえ、普段から着物を着ていると、育ちがよく思われるようで」

「それ、自分で言わないほうがいいですよ」

「ご忠告、痛み入ります」


 ズバズバと指摘する鷹野の言葉は小気味が良い。八月一日ほづみは思わず笑ってしまう。


「それで、良い人だと思われるのが心外だと?」

「そうなんです」


 八月一日ほづみの告白を聞いた鷹野は、突然噴き出して笑いだす。

 初めて見る笑顔だった。

 眦に浮かんだ涙を指先で拭いながら、鷹野は言った。


「大丈夫です、安心して下さい。私には八月一日ほづみさんが良い人に見えていないので」

「いや、陽菜子さんの前では、全力で良い人ぶっていたのですが」

「すみません、ぜんぜん気付かずに」


 つれない態度を貫く鷹野にホッとしつつも、どこか残念に思ってしまう八月一日ほづみであった。


 一時間後。想定外の事態となる。

 鷹野は大変酒が弱かったのだ。


 とろんとした目付きで八月一日ほづみを見ながら、優しい声で相槌を打つ。普段はまったく笑わないのに、おっとりと微笑みながら話を聞いてくれる様子は奇跡としか言いようがない。こういう酔い方をする人を、八月一日ほづみは初めて見た。


 最初は調子に乗って話をしていたが、あまりにも普段と違うので不安になる。

 鷹野は二杯しか飲んでいないのに、顔も真っ赤だった。


「あの、陽菜子さん、大丈夫ですか?」

「すみません、あまり強くなくて」

「帰りましょうか?」

「平気です。それよりも、お酒は飲めました? 食事は?」

「いえ、私は大丈夫です」


 先に立ち上がり、手を差し伸べる。

 無視されるかもしれないと思っていたら、鷹野はそっと手を重ねた。

 足元はしっかりしていたが、心配だったので家まで送った。


「では、また」

「はい。ありがとうございました」


 酔っ払っているにもかかわらず、鷹野は綺麗なお辞儀を返す。


「今度、お礼をしますので」

「でしたら、デートしてください」


 八月一日ほづみの誘いに、鷹野は赤かった頬をさらに赤く染める。

 顔を伏せ、躊躇う様子を見せたあと、小さな声で返事をした。


「あの、予定が合いましたら」

「本当ですか?」

「はい。私で良ければ」


 その場で抱きしめそうになったが、必死で堪える。

 まさか、了承してくれるなんて――。


 けれど、後日、鷹野は申し訳なさそうに言った。この前の飲みに行った時の記憶がまったくないと。

 膝から崩れ落ちそうになる八月一日ほづみ。けれど、必死に耐えた。


 ゆっくりゆっくりと歩み寄ればいい。そう思っていたが――


「あの、陽菜子さん、よろしかったら今日、食事に行きませんか?」

「すみません、忙しいので」

「……左様で」


 道のりは遠い。

 けれど、八月一日ほづみはもうしばらくは猫ちゃんとの戯れを楽しむことにした。


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