第一話 脳筋編集女子の受難
「鷹野さん、来週から着物の専門誌、『雅』の編集部に行ってくれるかしら?」
「――えっ、嘘……ですよね!?」
突然の異動命令に一瞬思考が停止する――春。
窓の外では、桜がはらはらと、柔らかな風に乗って舞っていた。
編集者鷹野陽菜子、二十四歳。文系の四年大学を卒業し、あおい出版に入社した。
あおい出版は雑誌、単行本、文庫、新書、コミックなどを刊行している総合出版社で、女性向けファッション雑誌を得意分野としている。
ティーン向け雑誌『Krone』を愛読していたこともあり、陽菜子はあおい出版の入社試験を受けた。
見事、合格をして、ファッション系の編集部に配属されたのだ。
陽菜子の担当していたのは二十代から三十代女性をターゲットにしたファッション誌『minet』。保守的な服を扱う月刊誌である。
現在、入社二年目。最近やっと企画を任されたり、撮影現場に行ったりと、仕事が乗ってきている時期だった。
ファッション業界は華やかなことばかりではなく、多忙で地味な仕事ばかり。それでも、楽しさとやりがいを見出していたところでの異動である。
納得できない異動命令に、陽菜子は『minet』や『Krone』の編集長を務める安藤に理由を問う。
「あの……なんで、私が『雅』に?」
「それは、鷹野さんが頑張り屋だから。入社当初も、周囲はハラハラしていたの。体育会系な新人に『minet』の編集が務めるかって。でも、あなたは今日まで真摯に取り組んでくれた」
体育会系と言われ、陽菜子は苦虫を噛み潰したような表情となる。二年前、あおい出版の最終面接で特技を聞かれ、空手の型を披露したのだ。そのことは飲み会の度に語り継がれ、伝説となっていた。
そんな陽菜子であったが、ファッション雑誌へ配属されたので、服装には人一倍気を遣っている。
本日のファッションはボルドーカラーのトップスにベージュのカーディガン、細身のジーンズに、七センチの踵のパンプス。ショートカットのキャメルブラウンの髪色と相俟って、見た目こそ派手に見えるが、性格は真面目で責任感が強い。そこを買った編集長が、今回の異動を決めたのだと言う。
「でも、着物って着たことすらないんですけれど」
「平気平気! 『雅』の編集部に配属される編集は、みんなそんな感じだから」
ごくごく普通のサラリーマンの家庭に育った陽菜子にとって、着物は身近な存在ではなかった。大学時代に稼いだお金を着物のレンタルや着付け代に使うのはもったいないと思い、成人式もスーツで行ったくらいだ。
それに、女性らしさの象徴である着物は、一年中パンツスタイルで過ごす陽菜子には遠い存在である。
着物をメインに扱う雑誌『雅』への異動は、非常に複雑なものだった。
渋面を浮かべる陽菜子を見て、安藤はフォローをした。
「今の編集長は元々文芸の編集で、着物についての知識もなかったそうよ」
「そう、だったんですね」
聞けば、ずっとその部署にいるわけでもなく、産休の編集者がいるので、一年くらいの異動だと安藤は話す。
『雅』は年四回発行しており、着物情報を中心に、旅、文化、美容、食など、四季と絡めた情報を発信する四十代から六十代をターゲットにした専門誌である。
「未経験者大歓迎の、アットホームな編集部ですって」
「いや、そんな、居酒屋のバイトみたいな気軽さで行ける部署では――」
「大丈夫、大丈夫! よろしくね!」
がっくりとうな垂れる陽菜子に、安藤は励ますように言う。将来、あおい出版を引っ張るような編集者になって欲しいからこその異動であると。真剣な眼差しを受け、言葉に詰まる。都合のいいように丸め込まれているのではとも思った。
ふと、我に返って思い出す。今、大切な仕事を抱えていたのだ。いったいどうなるのか、安藤に質問してみる。
「あの、半年かけてやっていた企画があったんですけれど、それは……?」
「他の人に引き継ぐことになるわね」
想定外の回答に、愕然とする。言葉を失っていれば、ポンと肩を叩かれ、正気に戻る。
「頑張っていたのは私も知っていたけれど」
それは、陽菜子にとって入社以来の一大プロジェクトだった。企画を手放さなければならないと知り、余りのショックに頭を抱える。
「ごめんなさいね」
安藤の謝罪も耳に入っていなかった。
気分は最悪。足元の床が、パラパラと崩れていくような、絶望感すらあった。
けれど、上の命令は絶対。拒否することなど許されないのだ。
陽菜子は異動命令に、渋々従うことになった。
異動は半月後。それまでに引き継ぎなども行わなければならない。陽菜子はやりかけの企画や、この二年で集めた資料のことを考えれば、頭が痛くなった。
直属の上司からは残念がられたけれど、成長する機会だと激励される。
未練タラタラな気持ちで、先月号の担当雑誌を本棚から引き出す。顔を顰めながら、パラパラと捲った。
『minet』はコンサバ系――清潔感があり、大人っぽくてかわいいを売りにした初歩的な装いを前面に押し出している雑誌である。女性らしく品のある服装は、男女問わず好感度が高い。
そんな『minet』を担当していた陽菜子は、男性的系な服を着ていることが多い。コンサバ系ファッションは他人が着ているのを見て楽しむ派なのだ。
学生時代に愛読していた『Krone』は女の子らしいガーリーな服をメインに扱っていた。それも観賞用で、実際に着て楽しむことはしなかった。
その理由は陽菜子の体格にある。身長百七十センチに、短い髪、小学生時代からやっていた空手の影響か、骨太で比較的がっしりとした身体付きをしている。故に、ひらひらシフォンの服や、脚が露出するスカートなどを着用することに躊躇いを覚えているのだ。
けれど、可愛い服は好きで、自分のファッションに取り込めないか、『Krone』を毎月買っていた。そのおかげで、『minet』でもなんとかやっていけていたのだ。
笑顔で映るモデルを眺めながら、はあと盛大な溜息を吐く。どうして習い事は空手、水泳の運動推しだったのか。ピアノと華道でも習っていたら、今頃コンサバ系ファッションを華麗に着こなす華奢なお嬢さんになっていたのではと思った。
そんなことを考えていると、視界の端でコピー用紙が三セット入った箱を運ぶ女性の姿が見える。桜色のシフォンスカートをひらひらと揺らしながら、危うげな足取りで歩いていた。『Krone』担当の秋野だった。すぐに陽菜子は立ち上がり、声を掛ける。
「秋田さん、私が運びますよ」
陽菜子はコピー用紙の入った箱を軽々と持ち上げ、コピー室を目指した。
秋野は用紙が切れていたようで、補充するために取りに行っていたと話す。
「鷹野さん、ありがとう」
二つ年上の先輩、秋野は儚げに微笑む。背も小さくて、力も弱く、可愛らしい女性であった。生まれ変わったら、こんな風になりたいと陽菜子は思う。
コピー室の用紙を補充し、残りは棚にしまった。
「助かっちゃった」
「いえいえ」
じっと、秋野は陽菜子を見上げる。何かと訊ねれば、高い背が羨ましいと呟いた。
「コピー用紙の在庫も、棚が高くて、いつも台に上って取っているの」
「そうだったんですね」
次から言ってくれたら取りますと言いかけて、もうすぐ異動になってしまうことを思い出す。もうゆっくり話す機会もないと思い、この場で報告した。
「そっか、鷹野さん、『雅』に行くんだ」
「はい」
秋野に寂しくなると言われ、なんとも言えない気持ちになる。殺伐とした編集部の中で、マイペースな秋野に何度か励まされたことがあったのだ。その時のお礼を、改めて口にする。
「いろいろと、ありがとうございました」
「うん、こちらこそ。大変だろうけれど、頑張り屋の鷹野さんなら大丈夫だよ」
そんな風に言われたが、いまだ、心の整理はできていなかった。
これからどうすべきなのか、考え事をしていれば、午前中の仕事には身が入らなかった。
昼休みを過ぎた頃、再び安藤に呼び出される。何かと聞けば、今から『雅』の編集部に挨拶に行くというのだ。
『雅』の編集部は、あおい出版ビルの二階にある。エレベーターを降りて、長い廊下の突き当りにある部屋だ。そこは真向いにビルがあり、部屋は昼間なのに薄暗い。
しかも、『minet』の編集部のように、複数の雑誌の編集部が入っているような、広いフロアではなかった。十畳あるかないか。
壁一面には今まで発行した『雅』と、着物関連書籍がある。他社から出ている着物の本や雑誌なども並べられていた。
机は四つ。どれも書類が重ねられ、ごちゃごちゃとしていて雑多である。
編集部にいたのは一人だけ。陽菜子達が部屋に入って来ても、振り向きもしない。けれど、その様子をひと目見ただけで、追い詰められ、忙しくしているのがわかった。
後ろ姿からわかるのは女性という性別、皺だらけの黄色いパーカーに、ジーンズという軽い装い。一つに結んだ髪の毛はボサボサ、ということのみ。
編集長はその後ろ姿に挨拶をする。
「鈴木さん、お疲れ様」
一回目は反応がなかったので、二回目は肩を叩きながら声を掛ける。鈴木と呼ばれた女性はビクリと体を震わせ、驚いた顔で振り返る。
「うわ、びっくりした! あ、安藤さんじゃない」
「忙しそうね」
「そうなの! 今日、校了日で」
「大変な時にごめんなさい」
校了日というのは、出版する本の修正をすべて終わらせる日のこと。場合によっては、最も忙しい瞬間でもある。
「今日、新しく配属される鷹野さんを紹介しようと思ったんだけど」
「え、助かる!!」
女性は立ち上がり、陽菜子のほうを見て感激しきったような表情となる。
「うわ~、若いし、背筋がピンとしていてまっすぐな目で、いいね! 初めまして、私は第三編集部所属の鈴木佳乃子。よろしくね!」
「どうも、初めまして。鷹野、陽菜子……です」
手を握られ、熱い抱擁を受ける。ぐいぐいな勢いに、陽菜子は圧倒されていた。
鈴木はふっくら体型の、快活な五十代の女性である。これまでいろんな編集部を転々としており、五年前から『雅』などの着物専門雑誌を刊行する編集部へ異動となった。
お堅い人達が編集しているものだと思い込んでいた陽菜子は、その辺にいそうな主婦みたいな鈴木に驚きを隠せなかった。
キラキラとした瞳で見つめられ、戸惑ってしまう。
「今すっごい困っていて、取材の約束をしていたんだけど、人手がまったくなくて、さっそくだけど、鷹野さん、行ってくれない?」
「え、私が、ですか!?」
「そうそう! バイトの子でもできるような、簡単な受け答えだから」
今日、取材に行くはずだった編集は他に予定が入っており、鈴木が代わりに行く予定だった。だが、校了前にとんでもないミスを発見し、現在修正中だと話す。現在、猫の手でも借りたい状況だったのだ。
勢いに呑まれて頷きそうになるが、配属は半月先。仕事を受けるわけにはいかない。
助けを求めるように背後の編集長を振り返れば、困ったような表情を浮かべていた。代わりに断ってくれると思いきや、想定外の言葉を口にした。
「悪いけれど、今日だけ手伝ってくれる? 『minet』側には話をしておくから」
「え!?」
「ありがとう鷹野さん、すっごく助かる! これ、企画ね!」
茶封筒を渡され、待ち合わせの場所である浅草の甘味屋に行くよう頼み込まれた。
安藤と鈴木の顔を交互に見る。二人共、笑顔だった。陽菜子は思わず「マジか」と呟いてしまう。頷く編集長二人の顔は、紛うことなく本気。
二年前、『minet』の編集部に配属された時は、仕事は雑用しか回してもらえなかった。撮影現場なども行けなかったし、取材に行くなどもっての外。小さな仕事からコツコツと。それは、どこの部署でも同じだと思っていたが、『雅』の編集部は違った。圧倒的な人手不足だというのは見て取れる。
待ち合わせの時間は一時間後。初めての場所なので、本当に行くとしたら急がなければならない。
信じられない初仕事を前に、困惑するしかない陽菜子。けれど、二人の編集長に見送られ、せかせかと浅草方面に向かうことになった。
あおい出版は千代田区にある。最寄りの駅は神保町。東京メトロ線で乗り換え一回。三十分ほどで到着する。
企画を確認する暇はなかった。機密が書かれた書類でもあるので、おいそれと電車の中などで広げるわけにもいかない。バイトにもできる簡単な仕事だという言葉を信じて、待ち合わせの甘味茶屋に向かうしかなかった。
鈴木より手渡された紙には、待ち合わせの時間と店の地図、それから『八月一日』という謎の走り書きがあった。今日は四月十一日なので、いったいなんなのかと首を傾げる。
考えてもわからないので、仕事に忙殺された中で書いたものだろうと思い、気にしないことにした。
思いの外、店が入り組んだ場所にあり、時間ギリギリに到着する。
指定された店は『小虎堂』というこじんまりとした店で、昼間なのに店名が書かれた灯篭の明かりが煌々と輝いていた。佇まいは浅草下町の、情緒溢れる店といった感じである。昔ながらののれんが、ゆらりと春風に揺れていた。
引き戸を開け、中に一歩踏み入れる。
「いらっしゃいませ!」
きっぷのいい女将に出迎えられた。あおい出版の者だと言えばすぐに合点がいったのか、ぽんと手を叩く。
「もう、いらっしゃっていますよ」
「はあ」
返事と溜息が同時にでたような返事をする。先に来て、企画書に目を通すという計画が即座に頓挫した。『minet』での取材と言えば、相手が時間より遅く来ることも珍しくなかったので、『雅』もそうだろうと楽観的になっていたのだ。
「どうぞ、奥の席へ」
小虎堂の席は六席。店の一番奥に、男性が一人座っていた。着物雑誌の関係者らしく、和装である。
黒髪に黒縁眼鏡、紺の着物に羽織姿で、落ち着いた風貌をしていた。年頃は三十前後か。
陽菜子はカツカツとヒールの踵を鳴らしながら、近づいていく。
声を掛ける前に一度、深呼吸をする。『雅』の代表で来ているので、相手に悪い印象を持たせてはいけないと背筋を伸ばし、あまり得意ではない営業スマイルを浮かべる。声も低くて怖いとたまに指摘されるので、若干高めになることを意識して話しかけた。
「どうも、こんにちは。あおい出版の鷹野です。鈴木の代わりに来ました」
「ああ、初めまして」
陽菜子の声掛けに対し、男性はパッと顔を上げ、明るい声で応じる。
「新しいバイトの方、でしたっけ?」
「え?」
「あれ、違いました?」
姿、形でアルバイトだと勘違いされ、陽菜子は愕然とする。何が悪かったのか。頭の中は真っ白になっていた。
黙ったまま瞠目する陽菜子を前に、八月一日は自身の発言が間違ったものだと気付いて詫びる。
「え~っと、違った、みたいですね。すみません」
頭を下げる八月一日を前にした陽菜子はハッと我に返る。それから慌てて鞄を漁り、名刺ケースを掴んだ。一枚取り出して、男性へ差し出す。
「鷹野陽菜子です。来月から、『雅』の担当になります」
現在は女性ファッション誌『minet』の編集部に所属し、今日は代理で来たと説明する。
「なるほど、だから恰好が編集らしくないと。とてもオシャレだったので、大学生のお嬢さんかと思いました」
その評価は陽菜子にとって嬉しいものではない。話を聞いていれば、無意識のうちに眉間に皺が寄っていた。
「八月一日桐彦と申します」
男性は懐から名刺を取り出し、名乗りながら陽菜子へと差し出す。
ここで、先ほどの謎が解明する。『八月一日』というのは名前で、『はちがつついたち』ではなく、『ほづみ』と読む。かなり珍しい苗字だと思った。
名前の上には和裁士と書かれている。今の陽菜子には、その肩書きの意味すらわからない。
「八月一日さん、今日は、よろしくおねがいいたします」
「こちらこそ。どうぞ、おかけになってください」
「失礼いたします」
なんとも言えない、気まずくも微妙な雰囲気が流れていた。女将がお冷を持ってやって来る。視線を泳がせれば、壁にメニューが貼ってあったので適当に目に付いた梅昆布茶を注文する。
途中、じっと見つめられていることに気付いた。
「あの、何か?」
「いえ、着物が似合いそうだなと思いまして」
「はあ!? 何を馬鹿なことを言って……! あ、いえ、なんでもないです」
短い髪にキャラメルブラウンの派手な髪色、吊り上がった目はキツい印象しかない。
着物は黒髪の、古き良き大和撫子な乙女が着こなすというイメージがある。女の子らしい姿形とは程遠い陽菜子には、似合うとは思えなかった。
ふと、思い出す。中学時代、初めてのデートにスカートを穿いて行ったところ、はっきりと「女っぽい服装は似合わない」と言われたことを。相手は空手道場に通う朋輩。道衣姿の陽菜子しか見たことがなかったので、違和感を覚えてしまったのかもしれないと、今になって思う。
けれど、好意を抱いている男子からの言葉だったので、余計に引っかかるようにして心に残っていたのだ。
過去の苦い思い出を蘇らせ、奥歯を噛みしめる。
八月一日を見れば、目が合う。にっこりと微笑みながら、再度、陽菜子に着物を勧めた。
「一度、着てみませんか?」
「いいえ、結構です!」
きっぱりと断ってから気付く。雰囲気が先ほどよりも悪くなっていることに。八月一日の顔から完全に笑顔が消えていたのだ。
陽菜子は額に汗を浮かべる。やはり、今の精神状態では無理だったのではと、編集長達に詰め寄りたくなった。あの場で流されてしまった自らにも、自己嫌悪する。
気を取り直し、封筒の企画書を掴んでインタビューの質問が書かれた書類を引き抜く。紙面に書かれていたものを、そのまま読み上げた。
「――『雅』夏の号、特別企画、和裁士に聞く、薄物についてのあれこれ」
読み終わった瞬間、「なんじゃこりゃ」と口にしそうになった。もちろん、寸前で呑み込む。書かれてあることの意味が、欠片もわからなかったのだ。
「薄物とは、夏用の着物のことですよ」
陽菜子の動揺が顔に出ていたのか、八月一日はやんわりと教えてくれる。浮かべている笑顔は柔らかなものであったが、どことなく呆れが滲んでいた。
基本的な用語だと言われ、じわじわと、顔が熱くなっていくのがわかる。
「着物について、あまりご存知ではないのですか?」
「え、ええ……まあ……」
今日、いきなり行くように言われたので仕方がない。そんな言葉を、ぐっと呑み込む。出版社の内なる事情など、八月一日には関係ないのだ。
陽菜子は複雑な思いを抑えるようにぐっと奥歯を噛みしめながら、一つ目の質問を読み上げる。
「長襦袢のお手入れについて……?」
「陽菜子さんは、長襦袢をどうしていますか?」
「なが、じゅばん……?」
なぜ「陽菜子さん」と名前で呼ぶのかと思ったし、それ以上に質問の意味もわからなかった。
長襦袢とはいったい? 着物を着たことがない陽菜子には、未知の言葉である。小物の一つなのだろうかと推測。けれど、それが何かはまったく思いつきもしなかった。
しばらくの沈黙。
途中、頼んでいた梅昆布茶が運ばれてきた。女将が去ったあと、八月一日は心底呆れたような口調で話しかける。
「……わかりました」
「何が、ですか?」
「質問の紙、貸してください」
「いや、これ、一応機密書類、なんですけれど……」
そう言ったが、どうせ質問しか書かれていないと思い、差し出した。八月一日は手帳を取り出し、さらさらと書き移していく。
書類は返され、八月一日は伝票を持って立ち上がった。
「え!?」
「原稿は家で仕上げて来ます。ご希望であれば、データにして送りますよ」
「いや、それは――」
今日、原稿は持ち帰るように言われていた。勝手な判断をしていいのか。スマホを取り出し、鈴木に聞こうとしたが、手で制される。
「大丈夫です。夏の号の発売日は五月下旬で、まだ、校了まで時間もあるでしょうから」
八月一日は踵を返し、女将を呼んで精算をする。
陽菜子も立ち上がって、自分の分を払おうとしたら、必要ないと言われてしまった。
そして、八月一日は店からでるために、引き戸を開く。このまま帰って行くと思いきや、最後に振り返り、陽菜子へ一言。
「今度会う時は、もっとお勉強をしていてくださいね。あおい出版のねこちゃん。ではまた」
まさかの「ねこちゃん」呼びに、言葉を失う。
ファッション誌の『minet』という言葉には、フランス語で『ねこちゃん』という意味がある。雑誌のターゲットである二十代の女性を示すもので、子猫ではない『ねこちゃん』が、コンサバ系ファッションで大人の猫のような着こなしをする、という意味が込められているのだ。
八月一日に「ねこちゃん」と呼ばれた陽菜子は、未熟者扱いをされたのだ。けれど、未熟者で間違いなかったので、返す言葉が見つからない。
八月一日は会釈をして店を出た。
残された陽菜子は口をあんぐりと開き、出入り口を見つめている。
しばらくぼんやりとしていたが、しだいにふつふつと怒りがこみ上げてきた。
「なんなの、あの人……!」
優しそうな見た目に反し、話す言葉は辛辣で容赦ない。陽菜子に着物が似合いそうと言った発言も、意味がわからなかった。
ねこちゃんという呼び方も、挑発に受け取る。負けず嫌いの陽菜子は今に見ていろと、復讐を心に誓った。