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作者: 藤原 祐一

 乾いた風が吹いた。

 ほこりっぽい空気が鼻先をくすぐる。

「選手呼び出しです。北武蔵中学の谷さん、まもなく決勝戦が始まります」

 ぼんやりとした頭が一気に覚めた。谷とは僕の苗字だった。公園の中の放送で呼び出されているのだ。いけない、試合が始まってしまう。立ち上がってラケットを探す。

 その時、前の道をジャージの女の子が通りかかった。多分選手の一人だろうが、遠目ではどこの学校かわからなかった。そもそも、男子と女子は大会が分かれているので関係ないはずだった。

 でたらめに探っていた手の甲が、木に立てかけてあったラケットに当たった。ラケットが倒れてカラン、という音が鳴る。その音で女の子が振り向いて、僕はその表情を見ることになる。

 女の子は泣いていた。眉を曲げて目の周りが真っ赤になっていて、それを見た僕は無視できなかった。

「どうしたの?」

 駆け寄って尋ねる。

 女の子は数瞬黙ったままこちらをじっと見て、次いで重々しく口を開いた。

「失くしちゃって……」

「何を?」

 聞きながら周りを見渡したが誰も人がいなかった。それで何故か、僕は安心していた。この子の助けになるのは僕だけだ、という使命感のようなものが湧き出ていた。初めての感情であったが戸惑うよりも喜ぶ気持ちがあった。

 女の子の話によると、自分の試合中に髪留めを失くしてしまったらしい。付けたまま出ようとしたところ、審判に外すように言われてベンチへ置いておいたら試合後には無くなっていた、とのことだった。

 今日は風が強かった。目を離しているうちに飛ばされてしまったのだろう。

「一緒に探してあげるよ」

「うん……」

 とは言ったものの、試合で使われるような大きな公園で探し物をするのは簡単なことではない。とりあえず、僕は女の子が最後に髪留めを置いたコートを中心に探すことにした。


 しかし、当の女の子は泣いたままで探そうとはしない。ほとんど僕が一人で探しているような状態だった。僕の後についてきては泣き顔のまま立ち尽くしたままで、励そうと声をかけても、

「見つかるよ、きっと」

「でも……」

 と俯いてしまう。

「一緒に探そう?」

「……」

 泣き顔のまま固まってしまう。ずっとこの様子で自分から探そうとはしない。もしかして、と僕は思った。元から探す気がないのでは……?

 もう元のコートからは大分離れたところまで来てしまっていた。草むらをかき分けていた手が引っかき傷だらけになっていた。物陰の裏に目を凝らし、隙間を見つけては屈み、と繰り返す僕の後ろを女の子は黙ってついてくる。

 日が傾き辺りが暗く寒くなってきても、僕は根気よく探し続けた。依然、女の子は悲しそうな顔をしてはいるが手伝おうとする気配がない。まるで見つかって欲しくないかのようで、それは女の子が失くした髪留めを諦めてしまったということなのかもしれず、僕は何としてでも見つけ出そうと躍起になっていた。

 もう一度元のコートから探そう。そう思いつつ体を起こしたときだった。風が吹いて、からからと音が鳴った。反射的に目を向けると、地面の上に鮮やかな物が見えた。近寄って拾うと大きな花の付いた髪留めだった。プラスチックの花飾りが電灯の明かりを受けて光っている。どうしてこんなに目立つのに見落としていたんだろう。

「これ?」

 後ろの女の子に渡すと、女の子は一瞬ひどく申し訳なさそうな顔をした後に、

「そう。ありがとう」

 と言って笑った。

 初めて見た笑顔はとても可愛かった。少し子供っぽい花柄の髪留めもこの子になら似合うだろうと思った。そして、僕がここまで必死になって探した理由がわかった。

 僕はこの子に一目ぼれしたんだ……。

「あのっ!」

 声が裏返った。顔が熱くなるのを感じる。心臓の高鳴っている音が聞こえてきそうだった。

「何?」

 女の子の声を聞くだけでも幸せに感じる。

「名前、教えてくれない?」

「いいよ。私は倉田……」

「りさー!」

 男の人の大きな声がした。女の子の後ろからその人が走ってくる。

「先輩!」

 振り向いた女の子が横に並んでその人の手を取った。さっきまでとは比べ物にならない、満面の笑みだった。

「りさ、探したんだぞ。みんな待ってる」

「ごめんなさい」

 謝る声も言葉とは裏腹に嬉しそうだった。そうか、この人は……。

「君、この子をみてくれていたのかい?」

「えっ! はい、その」

 僕より一回り大きな体が怖かった。

「感謝するよ、ありがとう」

 そう言って男の人は女の子を連れて去っていった。

「倉田りさ、さん」

 ぼそりと声に出して言ってみた。ひどくむなしい気分だった。

「おーい! 谷!」

 視線を上げると部活のメンバーがいた。走って向かってくる。

「お前どこ行ってたんだよ!」

 怒っている声だった。

「決勝なんでいなかったんだ? 監督も怒ってるぞ」

 ずん、とお腹に鉛が入ったような感覚。そうだ、僕は試合があって……。

 乾いた風が吹いた。

 ユニフォームのままむき出しの手足が寒い。体の芯まで冷え切ってしまったかのようだった。

 一体、僕は何をやっていたんだろう? 自分で自分が情けなくなってくる。

 そのとき、視界がぐにゃりと歪んだ。僕は自分が泣いているのだと思った。涙が出てもおかしくないくらい落ち込んでいたのは間違いなく、しかし目をこすっても視界は直らず、混乱する。慌てて右手に持っていたラケットを強く握ろうとして……。

 握れなかった。




 乾いた風が吹いた。

 何の拍子か、右手が手さぐりで近くの棒状の物を掴んだ。掴んだそれは思ったよりも重く、長く、目を開けてみると先端に三つ又の金属がついたクワだった。左手を添えて握りしめる。

 どうやら自分は段差に腰掛けたまま居眠りしてしまったらしい。今は畑を耕している最中だった。

 よいしょ、と掛け声をしながら立ち上がった。変な夢でも見ていたような気がする。少しの間逡巡して、止めた。最近天気の悪い日が多い。晴れている今日の内に作業を終えてしまいたかった。

 そんなに広くない畑は、生活していくのに手いっぱいくらいのものだった。父親から受け継いだ畑だ。正しくは、父親が早死にしてしまい継がざるを得なくなったのだった。

 元々僕は力仕事が嫌いだった。ちょっとばかし頭は良かったから、将来は役人仕事にでも就きたいなどと考えていた。それが、こんな土くさいことをしなければ明日が生きていけないようになるというのは、なるほど不幸には違いない。

 地面にクワを入れると適度な手ごたえが返ってくる。土のバランスがおかしくならないように丁寧に引いていく。足を運ぶ位置も重要だ。不規則に土の硬い部分が出来てしまうと植えた作物がずれて成長したり、水たまりの原因になったりしてしまう。

 力仕事とは言え考えることはいっぱいあるのだ。毎日がむしゃらに体を動かせばいいわけではない。そして、考えた分だけ成果が出る。僕は今の毎日に満足していた。


 大分日が昇って来た。顔の汗を手で拭いながらいつもの木陰へ行き、腰掛けた。そろそろ来るだろう。

「なおくんー!」

 来た。

 家の方から、快活そうな表情の娘が一人。地味な色の素朴なエプロンだが、実に似合っていた。軽く手を上げて応えた。

「いつも悪いね」

「何でもないよ!」

 隣の家の娘だ。名前はりさ。同い年、物心ついたときからの付き合いで、いわゆる幼馴染と言う関係だった。可愛げがあって気が利いて、僕はとても気に入っていた。

 手提げから取り出された握り飯を受け取る。毎日、彼女はこうやって昼飯を届けてくれるのだ。自分の家の手伝いもあるのに、わざわざ世話をしてくれるのだから頭が上がらない。

「なぁ」

「何?」

 握り飯をほおばりながら彼女に声をかける。彼女はにこにこ顔を絶やさず、見ているだけで癒されるようだ。

「髪、伸ばしたの?」

「あ、気づいた」

 バツが悪そうに笑った。

「いつもはこのくらいになったら切ってたんだけどね。お母さんがそろそろ伸ばした方がいいって」

 そう言って髪をかき上げて背中へ流した。肩に届くよりももう少し長い髪は今までよりも一層彼女の魅力を引き立てるようだった。美人、と言うのだろう。

「似合ってると思うぞ」

「ふふ。ありがと」

 本気なのか、癖なのか、満面の笑みだった。僕も釣られて頬が緩む。幸せだった。


 雨の日。特に用事のない日だった。いや、空けておいた日であった。

 昼を過ぎるころになっても雨は止みそうになく、仕方なしに僕は傘を持って僕は外に出た。

 目的地は最近できたという雑貨屋だ。都会の品や輸入品を扱っている店で、値がいくらか高くそして胡散臭そうな雰囲気に敬遠していたのだが、意外と人気らしい、というのをりさから聞いたことがあった。

 泥道を歩きながら僕は考えていた。もうすぐでりさの誕生日だった。ささやかな贈り物を贈るつもりだ。いつものお返しと言うには釣り合わないかもしれないが、それくらいはしてあげたい気持ちがあった。

 雑貨屋の中は暖かく明るかった。品物は雑多で、食品から衣服、玩具や工具までが置いてある。これは面白い、人気なわけだ。その中に髪留めを売っているコーナーを認める。

「お兄さん、贈り物ですかな?」

 品物を見ているとすぐ横から声がして驚いた。店の人のようだ。物腰からして店主なのだろう。

「そうです」

 そう言うと店主は愉快そうに上を向いて笑った。客に失礼だろうとは思ったが不思議と不快感はなかった。店主の声は男にしては高く、それでよくよく見てみると手に皺はないし肌にはまだツヤがある。

「おいくつですか?」

「私ですか?」

 十八です。と彼は答えた。同い年だった。

「その年でこんな店を?」

 正直言って驚いていた。その年で立派な店を建てて経営するなんて。しかも今までになかった種類の店だ。商売がうまく行く保証などない。

「光栄です。是非ご贔屓くださいな」

 そう言って深々とお辞儀をした。

「おっと、買い物に来たのだった」

 視線を商品に移す。台に並べられた髪留めは様々な種類のものがあった。当然、自分で使ったことはないから、どれがいいのかはわからない。

「店主、何か良いものはないでしょうか」

「ふむ」

 先ほどまでおどけた口調で話していた店主は不意に真面目な表情になって唸った。

「ここにある物は、見た目は違いますが付け心地は大きくは変わりません。そう取り揃えてございます」

「はぁ」

「ですから、ご自身で選ばれるのが一番です。贈り物なのでしたら、なおさら」

 なるほど、と思った。と同時に、ここはそういう買い物をする場所なのだと分かった。今までは生活に必要な物を最低限だけ買うような買い方しかしたことがなかった。そしてこういう店を提供できる彼はやはりすごい人物なのだ、と評価した。


「これにします」

 しばらく手にとっては戻し、眺めては悩んだ末、一つの髪留めを手に取った。大きな花の飾りが付いたものだった。透明で光を反射してきらめいているが、ガラスではなく、軽い材料のそれは店主曰くプラスチックと言うらしい。

「いくらですか?」

 店主の言った値段に舌を巻いた。毎日切り詰めて生活をしている身にしては高い値段だった。だが、値段を訊かれた店主が少しの逡巡を見せたのはおそらく、気を利かせてくれたのだろうと憶測をし、僕はその額を差し出した。

 店主はサービスだと言って包装をしてくれた。受け取った僕は丁寧に懐に入れ、店主に感謝を述べた。

「また来ます」

「それはありがたい。どうです、今度食事でも?」

「食事?」

「あー、いえ。失礼しました。あなたのことが気に入りまして。いやはや、これも失礼でしたら……」

 店主が狼狽していた。それは如何にも年相応のようで安心したような気持ちがあった。何を隠そう、この短時間で僕も彼のことを気に入っていたのだ。

「そういうことでしたら、是非」

「お恥ずかしい」

 そう言って彼は頭をかいた。

「僕は谷、と言います」

「私は片岡と申します。何卒よろしくお願いします」

 店も店主も良かった。満足げな気分で僕は店を後にした。


 自分の家の前に人影が見えた。この雨の中で何をしているのか怪訝に感じたが、近づいてみると、りさだった。

「おい、どうしたんだ?」

「なおくん……」

 りさは今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 家に招き入れて座らせる。気付いた母親がお茶を用意してくれた。彼女の泣き顔なんて久しく見ていなかった。

「ほら、黙ってないでさ」

「りささん、聞いてあげるから話してみなさいな」

 僕と母親が促すと、りさはぽつぽつと話し出した。

「実は、私、家を出なければならなくなってしまいました」

「家を出る? どうして?」

「私、私……」

 とうとう泣き出してしまった。母親と二人で困っていると戸が二回叩かれて、出るとりさのご両親だった。

 話を聞くと、なんでも、りさはこの地一帯を治める地主の隠し子だと言う。地主にはもう一人子供がいたらしいがつい最近に亡くなったらしく、後継ぎとしてりさに声がかかったのが今日とのこと。

 突然のことに驚いた僕は声を出すことさえできずうなずくばかりだった。隠し子? 理不尽だと思った。しかし言葉が出なかった。

 明日には迎えが来るらしい、と最後に言ってりさとご両親は帰っていった。僕の体は彼女らを見送りに動いていたが、頭は全く働いていなかった。

 振り向くと心配そうな顔をした母親がいた。多分、僕の顔は相当情けないことになっているのだろう。

「母さん、知ってたの?」

「りささんが実の子でないことは知っていたわ。でも、誰の子かまでは……」

 そう言って首を横に振った。

 僕は想像した。りさが急にいなくなってしまうことは寂しい。だが、だからと言って、急にりさを引き取ろうとした地主が悪いのだろうか。僕は父親が逝ったときのことを思い出した。身内が亡くなったときの悲しさや心細さはどれくらい耐えがたいかは僕にも分かる。

「地主さんですって。りささんも悪くはされないわよ」

「そっか……」

 地主の娘になるのか、と思うと不意に苦しくなった。金持ちになるんだ。良い生活が待ってる。懐の髪留めを握りしめた。大きさの割にひどく軽いそれは如何にも安っぽく感じた。こんなことなら、畑なんか耕さずに大いに勉強して役人にでもなれれば……。

少なくとも明日、弁当を持ってくることはないだろう。少なくとも顔をあわせて話すことはできなくなるだろう。少なくともあの笑顔を見ることはできないだろう。

 僕は居ても立ってもいられなくなり、家を飛び出しりさの家へ飛び込んだ。りさはうつむいていてご両親に慰められていた。

「りさ!」

 僕はりさの手を取って引っ張った。りさはうつむいたまま動こうとしない。

「一緒に行こう!」

 りさのご両親は悲しそうな顔をしていた。僕はそれを見て泣き出しそうな気持になったが必死になってこらえた。

「行くって、どこへ?」

 震える声でりさが言う。

「どこでもいい。遠くへ、逃げよう?」

 りさが顔を上げた。嬉しそうな顔をしていた。が、一瞬とても冷めたような暗い顔をしたのを見逃さなかった。この表情は何だ? 悲しい? 諦めた? 僕はこの顔を見たことがある……?

 威勢がそがれて瞬きをすると彼女の顔は元に戻っていた。

「なおくん。ありがとう、でも……」

「でもじゃないよ……。一緒にいたい。な?」

 そうだ、今渡してしまおう。僕は懐に手を入れて髪留めを取り出そうとした。

「いらない」

 冷たい声が響いた。それはりさから発せられていた。今まで聞いたことのないような声色に固まる。

「やめて」

 にべもない拒絶。りさは無表情だった。こんな彼女は見たことがない。僕は目の前が真っ暗になった。比喩ではなく、本当に視界が濁り始めていた。

「なおと!」

 母親が僕を追いかけてきて入ってくる。その声は嫌に遠く聞こえて現実味がない。寒い。

 開かれたドアから乾いた風が吹き込んできた。

 床を踏みしめようとした足の感覚がなくなり、突こうとした腕がどこにあるのかもわからなくなる。




 乾いた風が吹いた。

 ひんやりした感触に僕は意識を取り戻した。ノートパソコンに向かった姿勢で固まっていた。画面を直視したままぼうっとしていたようだった。自分が何をしていたのか思い出すのに少し時間がかかったが、大丈夫だった。先ほどまでいじっていた午後の会議用の資料は、もう完成でいいだろう。

 立ち上がり、軽く伸びをして時間を見た。もう昼休みだ。近くの同僚の席に視線を向けると目が合った。

「おう、飯行くか」

「行こうぜ」

 僕はパソコンを手早く操作し、資料の印刷を始めさせた。帰ってくるころには終わっているはずだ。

 換気用に開けていた窓を閉めて部屋を後にする。今日は風が強い。


 社食では券売機で券を買って注文するのだが、券自体には、Aランチ、Bランチ、Cランチとしか書かれていない。それぞれ和風、洋風、中華風となっていて、そのカウンターへ行った後に従業員のおばちゃんにメニューを言うのだ。

 つまり、ここで買う券は注文をするためではなくて、売り上げを換算するときに使っているのだな、と一人納得をしつつ、お盆を取った。

 いつもなら和風の定食にするのだが、今日は目に留まったメニューがあった。券売機の横の、オススメのコーナーがあった。今日はおにぎりらしい。

 僕は定食よりも半分くらいの値段のそれを選んだ。

「おいおい、そんなんにするのかよ」

 同僚の片岡が笑いながら絡んでくる。

「なんか、今日はこういう気分なんだ」

 自分で言いながらよくわからず、思わずにやけてしまった。

 いつも料理を受け取るカウンターで大きめのおにぎり三つをもらい、小皿に漬物を自分でよそい取る。意外と重たくなったお盆をテーブルに置いて片岡と向かい合って座った。

「なんか武士の食事みてぇだな」

 なるほど、そんな感じがする。

「そう見えるか?」

「あぁ」

 海苔で巻いてかぶりつく。いつも食べている米と違って、握ってある分ボリュームがあって食べ応えがある。

 武士か……。おにぎりを食べるようなイメージはどうにも貧乏そうだ。武士は食わねど高楊枝という言葉もあるし、位は高くても生活は変わらなかったのかもしれない。

「なぁ、武士って金持ちだったと思う?」

「ん?」

 スプーンを口に運んでいた片岡の動きが止まる。ややあって心配そうな顔つきで口を開いた。

「お前、大丈夫か? 何かあったのか?」

「え?」

「いや……、急にそんなもの食べ出して変なこと言うからびっくりしたんだ。何でもないならいいよ、すまん」

「あ……」

 確かに自分は変なことをしていて、傍から見たらどうかしてしまったように見えてもおかしくはない。

「なんでもない、ただの気まぐれだよ」

「そうか」

 僕たちは食事を再開したが、微妙な空気が流れたままだった。こうなると白いおにぎりと漬物だけの昼食は味気なく感じてしまう。

 不意に、片岡がスプーンで僕の後ろを指した。

「あれ」

 振り向くと離れたテーブルに一人の女の社員がいた。背が小さめで黒いスーツがアンバランスだ。

「中々、いいんじゃないか」

「だよな」

 片岡がうんうん、とうなずいた。

「童顔なのがポイントだ。俺たちはああいう希少価値を求めていた」

「髪留めが子供っぽいのもいいよな」

 やけに大きい花の髪留めが彼女を周りから浮かせている原因だった。事務作業をするには文句はないだろうが、受付嬢などは務まらないだろうな、と勝手に部署を想像していた。

「是非とも席をご一緒したいところだ」

「そうだな」

 他の社員には聞かせられないような下種な話を小声で交わす。こんな話ができるのはこいつくらいだ。

 残りの食事を平らげ部屋に戻る。印刷の終わった資料をホチ留めしている内に昼休みの時間が終わった。会議の始まるころには、社食で見た彼女のことはもうすっかり忘れてしまっていた。


 数週間が経ったある日、片岡の口から予想外の単語が飛び出した。

「合コン!?」

「おいおい、あんまり大きな声を出すなよ」

 しかし片岡は僕の反応には満更でもなさそうだった。

「誰が来るんだよ」

「俺とお前と、俺の知り合いが二人と、女子が四人だ。全員ここの会社の人だよ」

「お前、いつの間に」

 へへっと片岡は鼻の下を指でこすった。

「あの子もいるぜ」

「あの子?」

「ほら……頭にひまわり乗せてる子」

「あぁ……」

 すぐに思い出すことができた。この前に社食で見かけたことのある人だった。確か名前は……。

「倉田さん、だっけ」

「そうそう、って何で知ってるんだ?」

「あれ?」

 自分でも不思議だった。何で知っているんだろう?

「さては、お前、俺に内緒で逢引していたな~?」

「いやいや」

 曖昧に笑い手を振って否定した。そんなことよりも自分の記憶の方が大事だ。

「まぁ、倉田さんはお前のこと知らなさそうだったし、それはないよな」

 片岡が腕を組んで大げさにうなずく。

「そこまで言うことないだろ! 彼女は僕のもんだ!」

「そうそう、その意気だ。絶対にお持ち帰りするんだぞ!」

 僕らはそう言って笑いあった。


 しかし、合コン当日は散々だった。

 普段通り調子よく片岡が話す一方で、僕はかちこちに固まっていてたまに振られた話にも相槌を打つので精いっぱいだった。お酒の席は何度も経験していたはずなのだが、それでも初対面の人といきなり話すことが、自分でもびっくりするくらい不得手だった。

 幸いなことは、倉田さんも僕と同じようだった、ということだ。彼女もひどく緊張していて、ほとんど料理に手を付けず話にも加わっていなかった。かと言って僕が許されるわけでもないのだが……。

 結局、何の話をしていたのかさえ覚束ないまま合コンが終わってしまった。何とか気を持とうと飲み物だけは飲んでいたのだが口の中はからからに乾いていた。

 いつの間にかできていた男女のペアが連れだって思い思いの方角へ散っていく。残ったのは僕と片岡と、そして倉田さんだった。

 倉田さんと目が合う。合コンの雰囲気のまま、僕たちはお互いに怯えたような表情で見つめ合っていた。

「お二人さん~」

 片岡が声をかけてきた。

「良いバー知っているんだけど行かない?」

 僕は倉田さんの方をチラリと見、微かにうなずくのを確認し、片岡に行くことを伝えた。


 どうやら片岡が僕たちを取り持ってくれたらしい、と気が付いたのはバーに入って一時間も経とうかというほどになってからだった。僕たちが黙ると片岡は饒舌に話し出す割に、僕か倉田さんが話そうとすると黙って聞き役に徹する。

 倉田さんは別の部署の、予想通り事務をやっている正社員だった。新卒だが、僕や片岡よりも年下で後輩に当たる。社食にはあまり行かず、普段は弁当を持ってきているそうだった。

 趣味はテレビで、片岡とはその話題で盛り上がっていた。僕はあまり見ないから話すことはできなかったが、聞いているだけでも楽しかった。

 僕も倉田さんもとてもリラックスして話すことができた。片岡のおかげかもしれない。まるで三人とも昔からの知り合いだったような、どこか懐かしい雰囲気を感じていた。

 その中で倉田さんの付けている髪留めの話が話題になった。

「倉田さん、その髪留め、可愛いね」

 話し出したのは片岡だった。

「えぇ、まぁ。ありがとう」

 倉田さんは歯切れの悪い返しをした。片岡は何かに感づいたのか言及しないでいた。しかし、僕は違った。

「それ、目立つけどどこで手に入れたの?」

 倉田さんが僕を真っ直ぐに見た。今までは幼げの残る顔つきだったのが、鋭い表情になった。既視感。僕は怯まずにそれを真っ直ぐに見返す。

「倉田さん、髪もきれいだよねぇ」

 片岡が慌ててフォローに入った。倉田さんの表情は変わらなかった。僕は溜息をついて、

「そうだね」

 とつぶやくように言って視線を逸らした。

「ありがとう」

 倉田さんはそう言ってはにかみながら自分の髪に手を当てた。強張っていた片岡の顔が緩む。場の雰囲気が和んだ。

 それ以降、髪留めが話題になることはなかった。


 三人の席は夜が明ける前にお開きにすることになった。

「今日は楽しかったよ。ありがとう」

 僕は片岡と倉田さんの二人に言った。本心からの言葉だった。社会人になってからこんなに楽しい席は初めてだった。

「私も、ありがとうございました」

 倉田さんが軽く頭を下げた。僕は地面に視線を落とす。

 帰り道は僕と、倉田さんと片岡で別れた。良い酔い方をしているから帰ったら気持ちよく寝られるだろう。そんなことを考えながら僕は近くを通ったタクシーを呼び止めた。


 その一週間後、僕は決心していた。

 倉田さんに思いを告白しよう。

 告白はできなくてもとりあえず会いたい。合コンの日の夜から倉田さんのことで頭がいっぱいだった。

 倉田さんの連絡先を僕は聞いていなかったから、退社するところを待ち伏せすることにした。

 オフィスの建物の外にあるベンチに座り、僕はひたすら待つことにした。

 乾いた風が吹いた。

 外は寒かった。缶コーヒーを買い、手と胃を温めながら待つ。その間倉田さんのことを思い出していた。垂れ気味の目、控えめな話し方、そして花のついた髪留め。早く会いたい。

 オフィスの自動ドアが開くたびに目を走らせること数十回、ついに倉田さんが出てきた。僕は嬉しくなって立ち上がったが、その隣にいる人物を見て凍り付いた。

 片岡だ。二人が楽しそうに話しながら歩いていた。触れ合いさえしていないものの、二人の距離は恋人のそれだった。

 二人が見えなくなるまで立ち尽くし、再び腰を落としてうずくまる。二人があんな風になった経緯を想像した。考えた。考えることしかできなかった。合コンの日、あの後もしかして二人は……? いやその後かもしれない。お互いに連絡先を知ってから距離を詰めたのかも。バーで過ごしたとき、居心地の良さを感じたのは僕だけではなかったはずだ。倉田さんも片岡もそうだっただろうから仲良くなっても不思議ではない。いや、もしかしたら二人はずっと前から……。思考がぐるぐると周る。

もしかしたら。

もしかしたら、二人はあんな関係ではないのかもしれない。

 ようやくたどり着いた希望に、僕は冷え切った手で携帯を操作した。辺りはすっかり暗くなっていた。

 片岡の電話に繋がる。呼び出し音が長く鳴った後、通話に出た。

「なぁ、お前」

 その先の言葉が出なかった。いろんな感情がないまぜになって息が苦しい。

「見たのか?」

 乾いた風が吹いた。

 片岡が低い声で告げた。僕はそれで何もかも悟った。視界がぐらつく。すがるような気持ちで携帯にしがみつく。

「なんだってお前なんだ! 倉田さんは――りさは、僕のものだ!」

「おい、落ち着けって!」

「僕はずっとりさと一緒で! その髪留めだって僕が!」

 ぽつぽつと顔に水が当たる感触に、雨が降り出していることに気付く。そう、こんな雨の降っている日に僕は……。

 僕は?

 ぬかるんだ地面を踏む感触を思い出した。僕は髪留めを買いに行ったんだ。新しくできた雑貨屋に。しかし、それはいつだ?

電話越しの片岡の声が遠くに聞こえる。返す自分の声も遠くなっていく。いつのことだろう? いつのことだ?




 乾いた風が吹いた。

 僕は教室の開いた窓から外の景色を眺めていた。秋めいてきた季節の風は少し寒く、まだ換気もそこそこだったが閉めることにした。

 頬に濡れた感触があって手の平でぬぐったが、返ってきたのはかさかさと乾燥した肌の手触りだった。窓を開けっ放しにしていたのだから、当然だろう。

 僕がこんなにも放心しているのには理由がある。それは、今日の放課後に告白をするからだった。相手は別のクラスの倉田りさ。生徒会の書記を務めている子だった。

 学期ごとに選ばれる生徒会の下っ端に僕が選ばれ、生徒会の会議で一目ぼれしたのがきっかけだった。一度も話したことはなかったが、気持ちを抑えきれず、今朝ロッカーに呼び出しの手紙を入れてきた。

 胸の高まりが抑えきれなかった。今から放課後が楽しみだ。


 放課後、彼女を呼び出した屋上へ向かう。階段を上るにつれて人気が少なくなり、まるで舞台に上がっているかのような高揚感を覚える。

 屋上へ出る扉に着いた。手をかけようとしたとき、

「谷!」

 僕を呼ぶ声に振り向いた。階段の下にクラスメイトの片岡がいた。

「また行くのか?」

「どういうこと?」

 片岡が悲しそうな顔をした。動悸がする。嫌な予感がした。

「いや……」

 僕は不安を振り切るように、片岡を置いて屋上へ出た。


 屋上の、一番奥の手すりに彼女はいた。

 乾いた風が吹いた。彼女の髪と大きな花の付いた髪留めを揺れる。

 倉田りさだ。僕が憧れている女の子。この一週間、彼女のことを考えない日はなかった。

「倉田りささん、僕は……」

「ねぇ」

 考えに考えを重ねた告白の台詞を遮られる。とても冷たい声だった。

「何回、繰り返すの?」

「繰り……返す……?」

「何回同じことを繰り返せばいいの!?」

「何を……」

 彼女が乱暴に髪留めを外した。肩より少し長い魅力的な髪が靡いた。

「何も思い出さない?」

 彼女の差し出す髪留めを見つめる。半透明でプラスチック製の花が付いた髪留めを、

「僕が探してあげた」

「それだけ?」

「僕が買ったんだ」

「それだけ?」

 僕が見つけた。僕が取り上げた。僕が壊した。僕が直した。僕が……。

 いつの僕が?

「思い出した?」

 彼女の視線が僕を射抜く。冷え冷えとした頭で僕は何もかも思い出した。

 公園で、街中で、畑で、船で、旅館で、オフィスで、裏路地で、学校で、……僕は彼女に一目ぼれし続けてきた。

そして失敗するたびにやり直してきた。

「いい加減にしてよ!」

 彼女は叫んだ。

「私はもう嫌……」

「だってさ、だってさ……」

 僕は全てを思い出してなお気持ちが止まらなかった。

「それでも僕は君を好きになったんだ……」

「そんなの……」

 彼女は泣き出していた。僕はその顔に見覚えがあった。僕はこんな泣き顔をする彼女を助けてあげたかったんだっけ。

 他ならない僕が彼女を悲しませていること、それに気づいてとても辛かった。悲しくて辛くて涙が出てきた。僕も彼女も泣いていた。それでもどうにもならなくて。

 乾いた風が吹いた。

 僕は決心した。

 と、同時に世界が崩れ出した。視界が歪み、足元が覚束なくなる。この世界が終わる。終わってしまう。でもその前に伝えたいことがあった。

 コンクリートの床に這いつくばるようにして彼女の元へ向かう。涙で顔がぐちゃぐちゃの僕は大層情けなかったと思う。それでも僕は彼女に言いたいことがあった。

 自分の口が動いているのかさえわからない中、僕は必死に声を絞り出した。

「倉田りささん、僕はあなたのことが好きです」

 濁る景色の向こう、彼女の驚いた顔と、それと確かに彼女の微かに笑った顔を僕は見た。




 乾いた風が吹いた。

 ほこりっぽい空気が鼻先をくすぐる。

 右目から一筋の涙が伝っていた。悲しい夢でも見ていたのだろうか。

「選手呼び出しです。北武蔵中学の谷さん、まもなく決勝戦が始まります」

 ぼんやりとした頭が一気に覚めた。谷とは僕の苗字だった。公園の中の放送で呼び出されているのだ。いけない、試合が始まってしまう。立ち上がってラケットを探す。

 ラケットは確か木に立てかけてあったはずで……、あった。落とさないようにしっかりと右手で握った。

 試合に行かなければ。これに勝てば優勝だ。対戦相手は準決勝でライバルの片岡を叩きのめしたやつらしい。相手にとって不足はない。

 試合のコートへ向かう途中にジャージの女の子とすれ違った。多分選手の一人だろうが、どこの学校かわからなかった。そもそも、男子と女子は大会が分かれているので関係ないはずだ。

 乾いた風が吹いた。

――ごめんなさい。

 僅かに聞こえた声に振り向いたが、そこには誰もいなかった。気のせいだと思い、忘れることにした。

 乾いた風が吹いた。

 風は女の子の髪と花を揺らして、秋の低い空へ吸い込まれていった。


横浜市立大学&横浜国立大学合同誌寄稿作品。

少年が諦めず何度も言い寄るのを、少女が乗り越えゲームクリアするお話です。

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