かゆい、いたい
「あ」
気付いたときには遅かった。
蚊が、わたしの脛からぷぅぅんと羽音を立てて飛び立った。もうだいぶ寒くなったのに、まだしぶとく生きているのがいたらしい。
すぐに、お馴染みの痒みに襲われる。
膝を折り曲げて踵をソファの縁にのせ、ポリポリと脛を爪で軽くひっかきながらテレビ画面を見つめていた。さっきから静かな洋画がついているけど、真剣に見ている人は誰もいない。チャンネル権を持つママはサイドテーブルに肘をついてうつらうつらしていて、パパは毛布にくるまって寝ている。
そしてわたしは。
『馬鹿なことを』
画面に刻まれた字幕の文字に、ひとり心を抉られている。
――馬鹿なことを、した。
あんなこと、言うつもりじゃなかったのに。
昼間の出来事を思い出すと、体のどこかがぎゅっと絞られる感じがした。絞られて、何か大切なものがぼたぼたと音を立ててこぼれていって、わたしの体はカスカスになる。そんな感じ。
この感情の名前は知っている。「後悔」だ。
「ひなた」
雄二の声が頭に響く。
もうあんな風に呼んでくれないかもしれない。笑ってくれないかもしれない。
折り曲げた膝を抱きかかえてぎゅっと目を閉じた。
「木原くんってさ、絶対にひなたのこと好きだよね」
放課後の教室。
クラスメイト達と話していたら、突然ひとりが言った。
「え?」
「だってさ、ひなたのことばっかり、やけに構うじゃん」
「そうそう、私も思ってた」
「ほらぁ。ひなた、自分でも思うでしょ?」
「ううん、別に。ただ昔から知ってるからってだけじゃない?」
木原雄二とは、彼が小学五年生のときに転校してきて以来、中学高校とずっと同じ学校に通っている。
言ってしまえば、たったそれだけの関係だ。
裸で一緒にお風呂に入ったことがあるほどの幼馴染ではなく、親同士は会えば挨拶と軽い世間話をする程度。
クラスが同じだったのは中学二、三年生のときだけで、「雄二のことは誰よりも知ってる」と豪語できるほどの歴史があるわけではない、ただのちょっと古い友達。
「ひなた」「雄二」と呼び合うのも、互いの友達がそうしていたから、自然にそうなっただけのこと。
そう、言い聞かせてきた。
自分にも、周囲にも。
たとえば雄二と話すたびに、目線をどこにやればよくわからなくなってきょろきょろしちゃうこととか。
帰りの電車が一緒になったら、つい寝たふりをしちゃうこととか。そのくせ、最寄駅で「ひなた」って揺り起こされる時、触れられた肩がそこだけやけに熱いような気がしちゃうこととか。
誕生日をちゃんと知ってるくせに、当日の夜になってから思い出したみたいに「あ、そういえば誕生日おめでと」って言っちゃうこととか。
語彙の少ないわたしには、うまく説明できない複雑な感情が溢れていて、最近ちょっと持て余し気味だった。
だからそういうのを全部、心のどこか隅っこのほうに追いやって、隠していた。誰からっていうのでもなく、強いて言うなら、たぶん、自分自身から。
「昨日もさ、木原くんが放課後、『ひなたいる?』って教室に来てさ」
「あ、そうそう、来てたよね」
「『もう帰ったよ』って言ったら、超急いで走って行ってさ。あれ絶対、一緒に帰りたくて追いかけたんだよ」
「私もそれ思った!」
「絶対そうだよねー!」
きゃあきゃあと、女子特有の高い声が上がる。
机の縁や、椅子。めいめい好きな場所に腰掛けて、好きな姿勢で話をする。
私は足を広げて反対向きに椅子に座ったまま、その場から消えてしまいたくなった。
嫌なわけじゃない。
恥ずかしいとも違う。
ただ、そう、心が痒かった。
痒くて痒くて、どうしたらいいかわからなかった。
どうしたらいいかわからなかったわたしの脳みそは、残酷な指令を出した。
心にもないことを口にする指令だった。
「え、追いかけてきたの? キモ」
これで痒さが消えてくれたらいい、と心のどこかで思っていた。
そしてそれは、成功したように思えた。
きゃあきゃあという声に混じった笑い声のおかげで、心の痒さが少しマシになった気がしたから。
友人のひとりが「あ」と声を上げるまでは。
その声に顔を上げて、凍りついた友人の表情を見た瞬間に、彼女の視線の先に何があるのかわかってしまった。
昨日の放課後、教室にやって来たという人。今日も来るかもしれないと、どうして思わなかったのだろう。
振り向くと、ドアのところに長身の人影があった。
「痛」
さっきから爪を立てていた脛を見る。蚊に刺されたあとからうっすらと血が出ている。
掻きむしったせいだ。
「痒いからって、掻きむしったりするから、こんなことになるんだ」
わかってる。
わかってる。
私が悪い。
膝に顎をのせた。
わかっていても、掻いちゃったものは仕方ない。血が出ちゃったものは、仕方ない。
もとには戻らない。
ただ、痛い。
じくじくとした痛みが、自分のしでかしたことを忘れさせてくれない。
ピンポン、と軽い音がした。
こんな時刻に誰だろう。
玄関に向かおうと立ち上がったときに目についたテレビの画面は、ちょうど洋画のエンディングクレジットを垂れ流していた。
「そろそろ後悔して泣きそうになってる頃だろうと思って」
玄関口に立って寒そうに肩を縮めながらそう言ったのは、痒みの原因の人だった。
「何でわかったの」
「さぁ、何ででしょう」
彼は肩をすくめる。
もう何が何だかわからなくなった。
痒かったはずの心がぎゅんと痛くなった。
何も言わずに、ううん、言えずに、目の前の人に抱きついた。
じわり、涙がにじむ。
「ひなた。お前ねぇ、この服、俺が持ってる中で一番高いやつよ?」
文句だけど、声は優しかった。
裸でお風呂に入ったことがあるほどの幼馴染じゃないけど、声色で怒ってないってことがわかるくらいには、雄二のことを知っている。
ぽんぽん、ぎゅ。
心が、鷲掴みにされたみたいに余計に痛くなった。
だけどそれは、ちっとも嫌な痛みじゃなかった。
「好き」
「知ってる、俺も」