最終章-6
そして、今日を持って最後となる自分が担任として務めてきたクラス――三年三組に向かって廊下を進んだ。
出席簿を脇に挟んで――
勿論、来年も同じクラスを受け持つかもしれないが、クラス名が同じで、生徒は違う。
更に、来年で三年に進学する現二年生の中には、彼のような特別な何を携えた生徒はいない。つまり、全員が同じ環境の中、未来が用意さて生きているのだ。
彼とは違って――
伊神は教室に向かっている間、この一年間のことを思い返した。
そして、改めてこの一年間がどれだけ大変で、どれだけ自分が教えられたのか思い知った。
既に、自分は一人の社会人であり、社会に貢献している大人の層の中の一員であり、子供たちには数多くのことを教えなければならない立場のはずだった。
だが、この一年間はそうでなかった。
反対に、その教え子に大きなことを教えられた。
それも教科書や参考書類に載っているには載っているが、それ以上に詳しく……そして、繊細に教わった。
一人の人間としての命の尊さを。
一つの地球上の生き物としての命の尊さを。
尊い命の儚さを。
この一年間で、自分の教え子から反対に教わった。
それも、自分だけじゃなく、彼と同じクラスのクラスメート全員が。
一時は、互いの誤解でいろんな誤りがそこに存在していた。
優等生と表現しても何も問題なかった一人の少年が、突如生活を一変させたのだから。
それも、彼が高校受験を済ましたその後日。
だが、彼は高校受験には行っていなかった。
その知らせがあるまで、教職員全員が行っていたものだと思っていた。
しかし、彼の母親から行っていないことを知らされた。
そして、行ったのは高校受験会場ではなく、彼がひと時だけ入院していた癌センターだった。
だが、そのことはクラス内には知らすことが出来なかった。
彼の母親から口止めされたからだ。
いや、それ以上に硬かったものは、彼本人の意思によるものだったから。
その為、今まであった誤りは更に深く、そして彼という人物像を狂わす薬になった。
それが、彼の本心だった。
彼は、自分でそれを自らの意思で導き、自分で自分が造った誤りと言う名の溝を深めていた。誰にも、自分の心境や心情を伝えることなく、晒すことなく。
ただ、彼が出来たこと。
それは、その溝を深めるだけだった。
そして、必要最低限の人との干渉。それ以上の干渉は自ら回避すること。
しかし、残りが決められていた時間がすべてを変えてくれた。あるいは、変えてしまったのか。
例えば、変えてしまった点。
それは、彼の容姿。外見だけではなく中身さえも変えられてしまっていた。
一時の検査入院をして、退院した当日に彼は教室にやってきた。
だが、そのときの彼は、既に変えられてしまっていた。
髪はなくなり、頬は削げ、身体つきは以前のものを感じさせないほどに衰えていた。
それこそまさに、自分等が知っている『此方遙』の代役になっていた。
しかし、代役とはいっても、その中身までもが変わることはなった。
このときまでは――
そして、無常に流れる時間は、それが変えてしまった彼を再び変えてくれた。
外見や容姿はそのままだったが、その中にある意思が強く、しっかりと何かを捉えていた。
それは、『生きること』だった。
彼は、残り僅かになって改めて生きることを確信した。
残り僅かの人生をフルに使って、無駄のない人生を送ること。
その為には、彼がやらなければならないことが多く存在した。
自分が作ってしまった、埋めることの出来ない溝。
そして、それから生まれてしまった多くの誤解と誤認。
その全てを、残り僅かな時間の中で修正しなければならなかった。
そして、その為にも彼は一つのことを自分で悩み、決心した。
その結果が、彼の為に多くの人がなくことになる、そう遠くない未来。
それでも、彼のそれは揺れることがなかった。
遂に、彼はクラスに自分の全てを公にした。
その結果、彼らの間にあった溝は埋まり、そこから生まれていた誤解や誤認は消えた。
が、その反面、近くない未来で彼の為に泣く人の数が増えてしまった。
しかし、それが間違いだとは思えない。
いや、思いたくない。
それが、自分の意思だった。
伊神は、教室へのドアを開け、教室の中に入った。
既に、生徒たちは自分たちの席に座っていた。
だが、一箇所だけの空席が目立っていた。
『此方遙』の座席だけが空席になっていた。
伊神は、いつものどおりに教卓の後ろに立ち、後ろを振り向いた――
「これは……」
いつもなら、後ろの黒板には日付と日直の名前しか書かれていなかった。
だが、今日は別格だった。いや、別格以上であり、それを表現するのは至難の業とでも言うべきか。
何せ、理由は分からないが、そこには白い幕が掛けられていた。
まるで、誰かに見せるために――
「これは?」
伊神は、クラスの生徒たちに聞いた。
とは言っても、彼は聞かなくとも、これが何のためにこうしているのか理解できていた。
だが、なんとなく聞きたくなっただけだった。
そして、それに答えたのは、久樹だった。
「決まってるじゃないですか、先生。遙に見せるためですよ」
伊神が思っていたと通りだった。
「なるほどな。んじゃ、最後の朝のホームルームでもはじめるぞ」
最後の朝のホームルーム。
その中で、伊神は彼らに一言だけ、強い口調で言った。
それは――
『此方は絶対にくる』の一言だった。
そして、それ以外に彼らに伝えたことは、卒業式の開始時間だけだった。
「んで、玖珂、何のようだ?」
それが終わるや否や、久樹は伊神を廊下に呼んだ。
「先生、これ……」
久樹は、ブレザーの内ポケットに仕舞っといていたものを取り出した。
それは、あのときに渡されたもの――卒業式で読む答辞だった。
「此方から渡されたのか?」
伊神の口調は、冷静そのものだった。
「いいえ。遙の父親から渡されました」
「……そうか……」
「はい……」
二人の間に、沈黙が生まれた。
それと同時に、教室内ではこよみが白い幕が掛けられている黒板の前に立っていた。
「迷惑かな?こんなことして」
「え?」
そんな彼女に声をかけてきたのは、同じクラスの子で、よく昼食を共にしている子だった。
「どうかな?こよみちゃん?」
その子は、こよみの表情を窺うように訊いた。
「ん~。迷惑じゃないよ。きっと」
こよみは、笑顔で答えた。
そして、更に付け加えた。
「遙ちゃん、きっと驚いて喜んで、泣くよ。きっと」
その表情には笑顔よりも、輝きが目立っていた。
廊下。
他のクラスの生徒たちも行ったり来たりしており、今までとは違って賑やかだった。
それが、卒業式という特別な日だからこその現象なのかもしれない。
そして、その中に、久樹と伊神は向き合う形で立っていた。
久樹は、教室に外壁に寄りかかり、伊神はその正面の廊下の壁に寄りかかっていた。
だが、二人の間だけには、周りと違って沈黙だけに包まれていた。
しかし、それは一言の言葉によって消された。
「先生」
その言葉は、久樹が伊神のことを呼ぶ声だった。
「遙……来ますよね?」
だが、その言葉によって再び沈黙に制された。
と思いきや、再び破かれた。
今度は、それを行ったのは伊神だった。
「来るに決まってるだろ」
そして、業と一瞬の間を置き、更に付け加えた。
「今は、信じて待つだけだろ。玖珂」
そういい残し、彼は久樹を残して、先に教室の中に戻っていった。
残された久樹は、廊下の窓越しに空を見上げた。
そこから見える空は、いつもと何も変わることない青空が広がっているだけだった。
「おぉい、玖珂。時間だから、教室に戻れ」
「は~い」
教室から顔を出した伊神の声に返事し、彼は促されるまま教室に戻った。
教室に戻るや否や、伊神はクラスの生徒たちにとあるものを配った。
それは、どこの卒業式の卒業生の胸に必ずある花のリボンだった。
「卒業式には、これを右胸付近につけて、出ること」
それを一人一人に配りながら、伊神は言った。
そして、それを受け取った久樹は、無言でそれを自分の右胸につけた。
こよみも同じにつけた。
それを配り終え、伊神は時間が来るまで、教室で待機。と生徒たちに伝え、彼は教室から出て行った。
「久樹ちゃん」
「ん?」
そして、その中で自分の席に座っていた久樹に声をかけたのは、こよみだった。
「どうしたんだ?こよみちゃん」
「あのね……」
そう言い、こよみは彼の前の席に座った。
そこは、遙の席だった。
「遙ちゃん来るよね」
そして、そこの机を撫でながら、呟いた。
だが、その呟きには悲しさや苦しみが満ちているものではなく、どこかしら自信が溢れた感じを思わす呟きだった。
しかし、久樹はそれにすぐ答えるわけではなく、手前を見据えた。
手前といっても、自分の前の席に座っているこよみのことを見捨て訳ではなく、その向こう側にある黒板を見据えていた。
そして、それを見据えたまま、口を開いた。
そこから出てきた言葉は、こよみの呟きに対しての答えだった。
「来るさ。絶対に」
そして、彼のその声にも自信が溢れていた。
「来ないと、呪ってやるよ」
「……そうだよね」
こよみも、後ろを振り向き、久樹と同じものを見据えた。
教室の黒板。
本来なら、その日の日付と日直当番になっているクラスメートの名前だけしか書かれていないが、今日は違っていた。
赤や、青や、白のチョークで黒板が埋まっていた。
そして、その中で一番目立つ文字。
それは、このクラスの一心。
それが、そこに書かれている。
でも、今は白い幕によって見えなくなっているけど――
それから、十分もしないうちに、担任の伊神が教室に戻ってきた。
そして、戻ってきて早々、廊下に並ぶように。と促進した。
それに促され、クラスの生徒たちは次々と廊下に出て、出席番号順で廊下に並んだ。
が、並んでいた久樹の元に二人の男子生徒が訪ねてきた。
勿論、それには何かしらかの理由があることを理解していた。
そして、その二人が久樹に訊いたことは、今日の卒業式の一部についてのことだった。
それは、卒業証書を受け取るクラス代表のことだった。
このとこを聞かれたとき、久樹は一瞬、気分を濁らした。
場合によっては、それの代役についてかもしれなかったから。
だが、それは久樹の予想とは正反対のことだった。
彼の元にやってきた生徒の内の片方が、久樹にこういった。
『実は、前の練習中に決めたんだけど、クラス代表の代えは用意してない』
それが意味することは、このクラスの代表は遙だけだということ。
そして、それを聞いた久樹は、感謝の思いが溢れ、目の奥が熱くなっていくのを感じた。
だが、久樹はそこからあふれ出そうとしていたものを抑制し、二人に自分の思いを告げた。『ありがとう。本当に、ありがとう』
その思いは、その二人だけに告げたのではなく、このクラス全員に対してのものだった。
だからこそ、声を高く上げたのだ。
 




