表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
41/57

第5章

今の僕は、夜が怖い。

寝るという行為が怖い。

夢を見るという行為が怖い。

別に悪夢が怖いから夢見が怖いわけじゃない。

夜の暗さが怖いから、夜が怖いわけじゃない。

それでも、僕はそれらが怖かった。でも、今の僕がそれであっても、昔の自分はそれではなかった。

今と昔の自分を比較すると、全く正反対のものだった。

まるで鏡に映した自分であるかのように――


昔の僕は、既にそのことを受け入れてしまっていた。

だからこそ、怖いと思っていなかった。

夜を寝て過すと言う行為が――

寝たからと言って、必ず僕の元に明日と言う日が来るとは限らなかった。

だけど、僕はそれを願っていなかった。

明日が来て欲しくないと思っていた。

でも、どこかで来て欲しいとも思っていた。

云わば、中途半端な意識だった。

今すぐ死にたいけど、まだ生きたい。

そう思っていた。

生きられる時間が短いことを知ってしまった以上、何かをしようとする思いや気分がなくなっていた。

そして、自分が生きていたことを意味する証や痕跡を残す気にもなれなかった。

だからそこ、僕は死にたいと思っていた。

願っていた。

叶えて欲しいと思っていた。

生きていたとしても、その時間が短いだけで何も出来ない。

何もする気になれない。

そんな僕が、昔の僕だった。

そして、そんな僕だからこそ、とった行動があった。

それは、極端なまでに人との干渉を避けていた。

干渉をするのは、久樹とこよみだけの友達と言える他人。

担任の伊神先生やその他の教師。

僕の主治医である加原さん。

そして、僕のことを産み、育ててくれた両親。

それだけ。

それだけの干渉。

ほかの干渉はいらなかった。

したくなかった。


だって、どっちにしたって僕は死んでしまう存在なのだから。

それなのに、多くの干渉をする必要があると言えるのだろうか?

僕は、その自問には瞬時で自答が出来ていた。


必要がない。と――

死ぬことが前提である僕に、必要以上の友達は要らなかった。

死んでしまったら誰だって忘れるに決まっているから。

僕が死んでしまっても悲しむ人が少なく済むようにする為にも――


そして、僕は久樹に相談しても、こよみには相談しなかった。

こよみは僕の彼女。

こよみは僕の大切な存在。

だけど――

僕は、相談したくなかった。

それが、裏切りと言われる行為であっても、僕の頑な意思が変わることはなかった。

そして、そのまま時間が流れるだけだった。


その結果、後戻りが出来ないところまで来てしまった。

それが、昔の僕がやってしまった過ちだった。


反対に今の僕も同じだった。

その過ちはなくなったけど、違う過ちを犯してしまった。

僕は、こよみにすべてを伝えた。

教えた。

閉ざしていた蓋を開けた。

こよみだけじゃない。

他のクラスメートたちにも教えた。

閉じていた蓋を開けた。


体が軽くなったのを感じた。

気分が柔らかくなったのを感じた。

世界がより一層明るく見えた。

そして、何よりも――

僕自身が新しい僕へと変わった気がした。

僕の前にあった暗闇だけの道に明かりの灯が灯った気配がした。


今の僕は、生きたいと思った。

生きたいと願うようになった。

生きることに執着するようになった。


僕は変わった。

確かに変わった。

新しい自分が――新しい僕がそこにいた。

僕の世界はそこにあった。

僕が求めていた答えがそこにあったんだ。



僕は、夢から覚めた。

いったいどんな夢だったのか分からない。

むしろ、覚えてない。

だけど、悪夢ではないことは確かだった。

僕が見ていた夢は、快いもの。

見ていて嬉しい夢。

見ていた楽しい気持ちになれる夢。

僕は、ベッドから起きた。

そして、パジャマから制服に着替えた。

後二週間もすれば切る必要性がなくなる制服。

着替え終えると、僕は壁に掛けられている極普通のカレンダーを見た。

そこに太文字で印刷されている日付に、赤丸で囲まれていた。

その赤丸は、印刷されていたものではなく、僕が書いたものだった。

僕が、朝を迎えられた日だけにつけてあるから、書かれていない日がその場を占めていた。

僕は、無言でそこに赤丸を書いた。

勿論、今日の日付のところだけに――

「おはよう」

僕は、挨拶を口にした。

勿論、その場にいるのは僕だけであり、挨拶を交わすことが出来るのは僕だけ。

つまり、僕の挨拶は僕に向かって言った独り言。

もしくは、僕の前にあるカレンダーに向かってのものなのかもしれない。

「今日も生きてる」

それは、実感。

実感を確かめるための確認。

そして、僕は右手を握っては開放し、また同じことを繰り返した。

それを何回か繰り返し、僕は頷き――

部屋を出た。


いつもの朝は、いつもどおりの朝。

母さんがキッチンでみんなの朝食の準備をしていて、父さんは食卓の専用席に座って、今日の朝刊を広げていた。

たぶん、今読んでいるところは三面記事だと思う。

「おはよう」

そして、僕はそんな二人に挨拶をした。

家族として普通の挨拶。

どこの家庭にでもある、普通の挨拶。

でも、それだと分かっているけど、僕にはどこかしら、それと違うように感じるのは錯覚なのだろうか?

そして、僕のそれに二人が答えてくれた。

「おはよう、遙」

キッチンから顔を出しながら母さんが言った。

「おはよう、遙」

新聞を畳んで父さんが言った。

そして、僕も食卓に着いた。

その場所は、僕の専用席。

父さんの前の席。

「はい、朝ごはんね」

「ありがとう」

席に着くや否や、母さんが僕の前に朝食を持ってきてくれた。

軽く焦げ目が付いたトーストが二枚と、目玉焼きと、牛乳。

どこにでもありそうな朝食の組み合わせ。

「いただきます」

そして、僕はそれらを食べた。

どこにでもありそうな朝食だけど、美味しく感じた。

でも、それ以上に感じたことがあった。

それは――


食べることができる嬉しさ。


朝の登校。

空は、清々しい青空と快い照光を発する太陽。

まさに最高の陽気と言える朝。

家から並木道までは一人で歩き、いつもどおり並木道で久樹とこよみと合流。

本当に、いつもどおりの朝。

日常の朝。

「おはよう」

合流して、最初に口を交わすのは朝の挨拶。

始まりは僕から――

「うっす、遙」

「おはよう、遙ちゃん」

そして、それに答えてくれる二人。

僕は笑みを浮かべた。

そして、二人も笑みを浮かべた。

「行こうか」

そして、僕は言う。

「うん」

「あぁ」

そして、二人は同時に頷いてくれる。


今日を含めて、卒業式まで残り二週間。

クラスも公舎内も、そして僕には無関係の部活内にもその雰囲気は感じ取れた。

僕と同じ学年の人が、友達同士で学校生活のことを廊下で話していたり、自分が勤めていた部長の座を継ぐことになった後輩にアドバイスをしていたり、憧れの先輩のもとに告白をしにきた後輩と話していたり――すでに、その雰囲気はそれぞれの別れを待っているようなさまだった。

そして、僕は――

この日も、職員室に来ていた。

「伊神先生、はい」

「おう。お前がラストだ」

僕が、自分の卒業文集の原稿を渡すと、伊神先生は即座にそれを受け取り、茶色の封筒に入れた。

ま、みるからにその中身は、それの原稿だと思うけどね。

「先生」

僕は、それを脇に挟み立ち上がった伊神先生に声をかけた。

「ん?」

あえて、置いた一時の沈黙。

その後に、僕は口を開いた。

「明日に希望を持つのも悪いものではないですね」

「……あぁ。そうだな」

伊神先生もわざと間を取って頷いた。

そして、僕はその場から去った。

勿論、出る前とその際には『しつれいします』と挨拶を残して――


職員室を出た僕は、そのまま教室に直行しなかった。

だからと言って、別に大きな問題になるわけではない。

そもそも、今の時期は授業と言った授業がないわけでありまして。

あったとしても、授業に関係のないビデオ――容易く言うなら教科の教師が個人で借りてきたレンタルビデオあるいはDVDで――の鑑賞。

あるいは、既に全ての受験が終わっているため、十人十色の時間。別名、自習。

つまり、サボろうが寝ようが問題がない訳でありまして――

そして、僕が向かった先は――


その前に立ち遮るそれが、出来てからの古さを感じさせる無勢のものを僕は開けた。

開けたといっても、力任せに押したり引いたりしたわけではなく、油がなくなりかけて金属と金属が擦れあう音を発するノブを回した。そして、後は、ドアを押した。

ドア自体は、軽々と開いた。

つまり、姿形は古さを表に出しているが、その動作に関しては意外な状態で保たれていた。


そして、僕はおそらく目的の場所であった、この場に到着した。

そこは、屋上。

上を見上げれば、そこには清々しい青空が広がっている。

もちろん、そこにはただ青空だけが広がっているわけではなく、コラボレーションの働きを兼ね持った白い雲も存在し、そして唯一の昼の空の光源である太陽も点在していた。

風が吹いた。

それも、今の時期の陽気に似合った、涼しい風が。

そして、その風は僕の短めに切り添えられている髪なびかせ、それとともに弱冠長めのブレザーをもなびかせた。

「……」

僕は、淵を囲むように備えられている緑色の網目状フェンスに寄りかかり、空を見上げた。

キシッ……

僕の体がそれに触れるのと同時に、それから僅かな軋み音が聞こえた。

だけど、それは自然的な現象だったので、僕はなんとも感じなかった。

「……」

僕の視界に入ってるのは青い空。

そして、流れ行く白い雲。

僕の耳に入ってくるのは外の音。

例えば、体育の授業でグランド内でサッカーをやっている生徒たちの声。

例えば、学校の近くの道を走っていく車の音。

例えば、ここから大分距離がある駅から響いてくる電車の音。

例えば――

「……」

そして、僕はその視界を地面に向けた。

その結果、視界に入っていた青い景色が一変し、ねずみ色でところどころに汚れが目立つ床が眼に入った。


『明日に希望を持つのも悪いものではないですね』


突然、あのときに言った言葉が僕の耳に聞こえた。

それは間違いなくとも空耳であることを僕は理解していた。


なんで、僕はあんな言葉が素直に口から出てきたのだろうか?

別に後悔があるわけでもなく、変な気持ちがあるわけでもない。

ただ、僕は考えてみた。

だけど、答えが出来なかった。

でも、それはそれで正解。むしろ、当たり前。


ホント、僕は改めて思い知った。

自分が、変わっていたことに。いつの間にか、変わっていたことに。

よく、その人が違う自分に変わってしまうことは怖いと聞くけど、本当はそうではないかもしれない。怖いと思うのではなく、その反対で僕は嬉しいと思っていた。

自分では、自分のことを変えることができなかったけど、僕以外の人――友達や両親、教師、医師――が、僕のことを変えることは容易いものだった。

例え、僕がどんなに足掻こうが無駄なことだとも思い知らされた。


「授業サボって、こんなところで黄昏か?」

「ん?」

その声は、唐突に僕の耳に聞こえた。

そして、僕が視線を上げると、そこには一番見慣れている友達が立っていた。

「久樹」

僕は、そいつの顔を見るや否や、そいつの名前を口にした。

「久樹こそ、サボりか?」

「ばぁか。サボりもくそもあるか」

久樹が僕の隣にやってきた。

そして、僕と同じようにフェンスに寄りかかった。

「第一、授業云々もないだろ」

「まぁね」

僕は、久樹のそのことばに相槌を打った。

「ほれ」

「あっ、ありがとう」

そして、久樹が自分の制服のブレザーのポケットから取り出したものを僕は受け取った。

それは、売店の自販機で売っているパックのジュースだった。

「んで、なに何黄昏てたんだ?」

久樹が、自分のものにストローを挿しながら訊いてきた。

「黄昏てたんじゃないよ」

そして、僕も自分のものにストローを挿しながら答えた。

「何て云うのかな?

ちょっと、考えていただけだよ」

僕はそれらしい言い訳を云って、パックに挿したストローを口にした。

軽くパックに力を入れると、その中に入っている液体ストロー越しに僕の口に入ってきた。

味は、単なる牛乳だった。

んで、久樹のが何なのか心理的に気になり、見てみると、久樹のはコーヒー牛乳と言うか甘さが強いカフェオレだった。

「考え事ね~」

久樹がストローから口を離し、呟いた。

「そうか」

そして、更に一言の呟き。

だけど、それには僕への追求が含まれてなかった。

だから、僕もそのことには触れないで置いといた。

本来なら、そうしたかった。

「聞かないんだ」

僕は、そのことに触れた。それも、自意識で行ったことだった。

そして、僕はストローを再び咥え、一気にバックの中に残っているものを吸い込んだ。

「んなの、言われなくても分かってる」

既に、自分のものを飲み終えていた久樹が答えた。

「まったく。俺とお前の付き合いは何年続いてると思ってるんだ?」

僕は、空になったパックを見据えた。

ただ見据えた。

久樹ではなく、自分が持っている空のパックを――

「そうか……そうだよね」

呟く、僕。

「あぁ。そうだ」

それに答えてくれる、久樹。

僕は、何度目かの青空を見上げた。

「久樹」

「ん?」

「明日に希望を持つのも悪いものではないね」

僕は、伊神先生に云ったことと全く同じことを久樹に言った。

「あぁ。そうだろ」

そして、久樹が答えた。

爽やかな笑顔を浮かべ。

「うん」

空も、爽やかな様だった。


翌日。卒業式まで残り十一日。

この日、僕は午前だけ学校に行って、四時間目の授業が終わった直後に早退した。

別に、体調や気分などといった心身が悪かったわけではなく、定期診断があったからだ。

勿論、そのことは朝のホームルームの時間に伊神先生がクラスに伝えてくれた。

その為だったのか、教室を出る際には多くのクラスメートから「また、明日な」とか、「明日も、来いよ」などの慰めと言うより元気付ける言葉をかけてくれた。

今までなかったことに感動し、僕は「あぁ」としか答えられなかった。

というより、本当は……その……泣いていい状況だったと思うけど、僕は我慢した。

そして、下駄箱のところまでこよみと久樹が送りに付いてきてくれた。

そこでも、二人からクラスのみんなと同じ言葉を掛けられた。

「また、明日も来いよな。遙」

「遙ちゃん、また明日ね」

と――

勿論、僕はそのときも泣きはせずに、微笑を浮かべ頷いた。

「当たり前だよ」

と――


その後、僕はがんセンターに到着した。

そこまでかかった時間は、毎回ほぼ同じ時間の二十分少々。

そして、そのまま僕は加原さんの診察室に向かおうとしたが――現実はそう甘くなかった。

だからと言って、最悪なことや不運なことが起きたわけではなく、嬉しいこととでも言うべきなのかな?

それは、入ってすぐの中央ホールで長い間入院している子供たちと逢った訳で。

「あっ、兄ちゃんだ」

その集まりから一番最初に僕のもとに駆け寄ってきたのは、少年だった。

古萓という名前か苗字なのかは分からないけど、ここに長い間入院している子供たちの一人。

そして、その声にほかの子供たちが反応して僕の元に寄ってきた。

「元気だったか、みんな」

僕は、満面の笑みを素直に浮かべている子供たちに訊いた。

たぶん、僕もそれにつられて笑みを浮かべていたことであろう。

「うん」とか「元気だよ~」などなど。

子供たちは、素直に僕の問いかけに答えてくれた。

それも、心の底から嬉しそうな声を出して。

それこそ子供だからこそできるようなものなのかもしれない。

「お兄ちゃんは?」

「ん?」

その中の一人の少女が僕に訊いてきた。

その子は、自分の背丈よりも高い点滴台に両手を据えていた。

「僕は、元気だよ」

その答えは自然と口から出てきた。

「やった~」

そして、僕のそれを聞くと、その少女は自分のことであるかのように喜びを表に出した。

それも、心の底から、何一つ汚れや曇りがない素直な気持ちで。

「じゃ、じゃ、兄ちゃん」

「ん?どうした?」

今度は、違う少年だった。

「一緒にこれやろうよ」

その少年が僕に見せたのは、今世間で話題になっていたカードゲームの束だった。

「ダメだよ~。お兄ちゃんはこれ読むの」

今度は、少女だった。それも、絵本を僕に見せながら。

「違うよ」「これだよ」「ダメダメ、兄ちゃんは僕らと一緒に遊ぶんだよ」とかとか。

ただ僕にできたこと。

それは、苦笑いに似た笑みを浮かべることだけだった。

それから、僕が解放されたのは一時間近く経ったころのことだった。


「相変わらず、ロリプレイ満喫中か?」

そして、加原先生の元に来ると、その言葉を必ずと言っていいほど聞かされた。

「ホント、その言葉は医師としてどうだかと思いますよ」

僕は、加原先生が浮かべているものと同じように、苦笑いを浮かべその人の前に置かれている診察用の丸椅子に座った。

そして、加原先生に言われる前に上着を首元まで捲った。

「ふむ……」

で、その上に聴診器を当てられた。

「これと言って、変化はないな」

「そうですか」

僕は、その結果を聞いてから上着を元に戻した。

加原先生は、僕のカルテにその結果を追記した。

「それじゃ、さっそくやるか。少年」

「はい」

僕は、その言葉の意味がなにを指しているのかを理解している上で頷いた。


そして、僕は加原さんに処置室へ連れてこられた。

とはいっても、それは毎回のことなので恒例となっていた。

勿論、その部屋の中に入ると既に準備が整っていて、僕はまっすぐベッドの上に横たわった。

「分かってるとは思うが、あの時と同じ薬を使うぞ」

「はい」

いつも通り、加原さんは慣れた手つきで点滴針を、僕の右腕に指した。

「んで、今日はどうするんだ?」

「入院ですよね」

僕は、笑みを浮かべ答えた。

そして、それに繋げるように言葉を口にした。いや、語った。

「本当は、帰りたいです。クラスのみんなと約束したから、帰りたいです」

それは、僕の本心だった。

本音だった。

「でも、あんな状態になったら、余計心配をかけてしまうから出来ないですよ。もし、出来るとしても、僕はやりたくないです」

それなのに、僕はあのときになんて答えただろうか?

恐らく……いや、絶対に肯定の答えを口にしていたはずだ。

このときになって、僕は自分の行いにおける過ちに後悔を感じた。

むしろ、感じさせられたと言うべきか。

「だから、今日はこのまま仮入院ですね」

僕は、笑みを浮かべていった。

「そうだな」

そして、僕のそれに対しての苦笑いを浮かべながら、加原さんは自動点滴装置のスタートスイッチを押した。

「投薬は、三時間で終わるから、またその時間になったら来るからな」

「了解」

そして、僕の投薬が始まった。

「あっ、それと加原先生」

「ん?」

副作用が来る前に僕は、言った。

「学校に伝えといてくれませんか?」

「……何とだ?」

「此方は、明日は入院しますってね」

「……」

「それと――」

僕は何度目かの笑みを浮かべた。

「僕の病室もね」

「……了解」

「ありがとうございます」

そして、僕はまぶたを閉じた。

一番最初に来る、薬の副作用を迎えるように――


「変わったな、少年」


声が聞こえた。

だけど、閉じたまぶたを開ける気にはなれなかった。

いや、開けることが出来なかった。

でも、その声は確かに聞こえた。

優しさに満たされた加原先生の声が。


……………

まぶたを開けようとした。

でも、開かなかった。

……………

体を動かそうとした。

でも、動かなかった。

ただ、痛みだけが感じた。

いや、痛みだけしか感じられなかった。

「――――」

空気の振動が耳に響いた。

本来なら誰かの声だと思うけど、それがまったく聞こえなかった。

……………

僕はもう一度、まぶたを開けようとした。

今度は、さっきと違って素直に力がはいった。

そして、異常な重さを持ったまぶたがゆっくり、ゆっくりと重く開いた。

「…………」

だけど、開いた視界は何も見えなかった。

「――――」

だけど、そんな視界でも誰かが僕の顔を覗き込んでいるようには見えた。

でも、それが誰なのかは分からなかった。

「…………」

僕は、その人に訊いた。でも、僕の声は出なかった。

僕自身には聞こえなかったから分からないけど、出なかった。


一体、僕は何時間苦しまれていたのか?

「――――ん?」

今度は聞こえた。誰かの声が。

それも非情なまでに聞き慣れ、一番聞きたかった声。

そして、長時間もの間に渡って僕の視界に影響をもたらしていた異常も、その脅威を緩めていた。

「こ……み」

僕は声を出した。

だけど、僕の声はひどいものだった。

「――――かた」

時間が経つにつれ、聴力が戻ってきた。

いや、戻ってきたのは聴力だけではなく視力も戻ってきてくれた。

「こ……こよみ」

僕の顔を覗き込んでいたのは、こよみだった。

「……」

僕は、微かに動かしただけでも激痛が迸る身体で、周りを見ました。

そして、分かったこと。

今、自分が居る場所は入院患者用の病室。おそらく、投薬処置が終わるや否やここに運ばれてきたんだろう。

今、僕のお見舞いに来てるのはこよみだけだった。不思議なことに、いつもなら当たり前のように着ている久樹が居なかった。

「ひ……久樹は?」

「久樹ちゃん?さっきまで居たけど、直ぐに出て行ったよ」

こよみのその答えだけで、僕は久樹がどこに行ったのか予測できた。

いや、それは予測とかではなく、間違いないと自信が持てるものだった。

「……」

僕は、自分の右側を向いた。

そこにあるのは、外を眺めることが出来る窓。

そして、午前の日差しと青空。

「遙ちゃん?」

こよみがその反対側から声をかけてきた。

その声色は、心配に満ちた不安な感情に聞こえた。

「……こよみ」

僕は、こよみのほうには向かずに、彼女の名前を呼んだ。

「なに?」

こよみが答えてくれた。

「教えないとダメだよな」

僕は、呟いた。いや、それは囁きだったのかもしれない。

「え……」

「僕の病名だよ」

「……」

「クラスで教えたことより、詳しく教えるよ」

僕は、上半身を上げ、こよみのことを見た。


遙の予測は、あたっていた。いや、彼自身が間違っていないと断定できる自信があったことから、それは予測ではなく別のものだったのかも知れない。

久樹は、加原の診察室に来ていた。

だが、最初から彼はそこに来ていたわけではなかった。

最初は、こよみとともに遙の病室を訪れていた。

だが、副作用にいつも以上に苦しまれている遙の様態を見るや否や、彼はその場所から去った。こよみを残して――更に、行き場所を伝えることなく。

ただ伝えたことは――

『遙のもとに、いてやってくれ』と、言っただけ。

それ以外は何も伝えなかった。

「先生、どうなんですか?」

「……」

加原は、久樹のその質問に対して、自分の前に提示されているものをじっと見据えているだけだった。

加原が見ていたのは、数枚のレントゲン写真だった。

だが、久樹がそれを覗き込んでも、どの部位のものかさえ理解できなかった。

ただ分かることと言うより予想できることがあった。

それが、彼のものである可能性が高いことだった。

「……確か君の名前は、玖珂君とか言ったよな」

「え……えぇ」

突然、加原が口を開いた。

だが、彼の視線はそこから離れることがなかった。

「玖珂少年……どうだった?少年の変化は?」

久樹は答えた。

彼が見たことをありのままに――

「初めてですよ。あんなアイツを見るのは……」

「……そうか……今回、少年に打った抗がん剤は変えたんだ」

「変えた……」

「あぁ。たぶん、君が知ってるのは、無理をしてまで家に帰ってきたときだけ」

「はい」

「それからかな。一度、彼が検査入院したときに、より作用が強い薬に変えたんだ。でも、強くなったのは作用だけではなく、副作用までもが強くなってしまったんだ」

「……それが、あれなんですか?」

久樹は、真剣な眼差しで訊いた。

「……」

だが、加原は口を閉じ、再び黙り込んだ。

「その結果、アイツの髪はなくなり、外見が異常に変わったんですか!!」

久樹の中に点在してたはずの怒りは、止まることのできない怒りに変わっていた。

「どうなんですか!!」

そして、遂に加原はそれから視線を離し、それを久樹に向けた。

「そうだよ」

「そ……そうだよって……あ――」

久樹の怒りは彼の自意識では止めることが出来なかった。

だが、加原の言葉がそれを止めた。

「君は、彼の言葉を聞かなかったのかい?」

その言葉には、意外なほどに優しさが含まれていた。だが、そのほかにも優しさを感じさせる棘までもが含まれていた。

「彼は何て言ってた?後悔していたか?感謝していたか?どうなんだ?」

「それは……」

久樹は、自分の記憶を遡った。

自分の記憶の中にある、遙の言葉を――

今、目の前にいる一人の医師の言葉の真意を――

そして――

思い出した。

「悔やんでません。

むしろ、その逆で嬉しいです。

まだこうして、生きていられることが――例え、髪が無くなってしまっても、生きていられることが嬉しいんです」

いや、それは思い出したのではなく、自然と久樹の口から出てきた。

そして、今でも覚えていた。

軽く眼を閉じるだけで、そのときの遙の様子から、クラス内の様子まで――

全てが繊細に記憶され、思い出された。


「先生……」


久樹は、俯き、彼のことを呼んだ。

その声は、小さく、聞き取り難いものだった。

だが、今、この場所にいるのが二人だけであった為か、その声は難なく彼の耳に入ってきた。

「……」

入ってきたからといって、彼は返事をすることなく黙り込んでいた。

そして、その視線は久樹の方ではなく、数枚のレントゲン写真の方に戻されていた。

「アイツは、生きられますよね?」

久樹は、聞いた。

俯いていた顔を上げ、加原を見据えた。

その表情は、真剣そのものだった。

「後二週間もないです」

久樹は震えていた。

無力で知識がない自分が悔しく。

だが、一中学生でしかない自分だからそれは当たり前のことだった。

それでも、悔しかった。

今にでも、一人の親友が死に掛けている現実に――


そして、加原は口を開いた。

久樹の質問に答える為に――

重く口を開き、重い声で答えた。


「それは、わからない」

「……えっ……」

不意の一言。

「本来なら、今こうして生きていられていることが奇跡に近いものなんだ」

「奇跡……」

「医師として言いたくないが……」

「……」

重い空気が流れた。

非常に重く――だが久樹が、この空気を感じたのは何度もあった。

そして、加原は指折り出来ないくらいに感じたものだった。

「本来なら死んでいてもおかしくなかったんだ……」

加原は震えた。

絶望だけの現実に。闇だけの事実に。

そして、力があり、知識があるのにも関わらず何も出来なかった自分に。

「……そうですか……」

その一言に絶望を感じさせられた久樹は、気持ちを沈ませその場を出て行った。

彼の背中は、絶望を漂わせていた。


そして――


残された加原は……

自分の机の上にあるもの全てをなぎ払った。

遙のカルテや、多種多様の筆記用具や、診察に必要な小道具類――それらが、音を発て、床に転げ広がった。

更に、レントゲン写真に力混めた拳を叩きつけた。


ゴンっ


硬いものを殴る音が響いた。


ゴンッゴンゴンゴンゴン


何度も何度も――

そして――

それが消えるや否や、違う音が聞こえ始めた。

いや、それは音ではなく声だった。

それも笑い声などのような歓喜の声ではなく、それとはまったく正反対の声。

つまり、加原は泣いていた。

泣き声を殺していたが、無常にも歯と歯の僅かな隙間から漏れていた。


「うぁ……くっ……ふぁ……」


ただ、その声だけがその部屋に響いていた。

そして……加原は、倒れた。

派手に椅子とともに倒れた。

だが、彼の声がやむことはなかった。

そして、彼は己の拳を床に叩きつけた。

何度も――何度も――

自分の中にある悔しさ、苦しさ、愚かさ――自分の中にある全てのものをはき捨てるかのように――


久樹は加原の下を後にし、そのまま屋上に来ていた。

さすがに季節だけ合って、屋上で感じる風は冷えていた。

「……」

更に、季節の影響はそれだけではなかった。

他の人が誰一人としていなかった。

「……」

つまり、冷えた風が吹く屋上にいるのは久樹ただ一人。

「……」

久樹は、白い網状の柵によりかかり、あたりを見回した。

あるのは、風になびく白い布――シーツ。

「……」


『本来なら死んでいてもおかしくなかったんだ』


自分でもそうではないかと疑っていた時期があった。

だけど、それには確信する為のものが揃っていなかった。

でも――医師から――それも、主治医からの言葉だとすると、確信するとかしないとかのも問題ではなかった。

医師からの言葉なのだ。

素人の自分の考えなんかよりも、説得力あり、信頼性がある。

だからこそ、認めざるを得なかった。確信するしかなかった。

「遙……」

久樹は呟いた。

一人の親友の名前を――


僕の質問に、こよみは彼女らしくない真剣な表情をして僕のことを見た。

ただ、それを見たときないだけであり、場合によっては僕の知らないところでその表情をしていたかもしれない。ただ、今の彼女のそれは、付き合ってきてから一度たりとも見たときがないそれだった。

「……うん。教えて。遙ちゃんの全てを教えて」

そして、表情が真剣になっているだけではなく、全てを受け入れることへの決意も固まっていた。

「……分かった」

自分で言っておきながら、僕は内心驚いていた。

何せ、こよみがこんな対応を見せるとは思っていなかったから。

もしかしたら、僕が思っていた以上にこよみは強い人なのかもしれない。

心が、僕より強いのかも知れない。

ただ、僕は怖かっただけなのかもしれない。

自分の全てを教えることが。

こよみに教えてしまって、関係が微妙に変わってしまうことが。

そして、今になって僕は分かったんだ。


自分が甘えていた現実を。

そして、それから逃げていたことを。


そして――僕は、語りだした。

自分の全てを、こよみに教えるために。

一部の間違いを修正するために。


加原は、自分の診察を出て、この場所に来た。

勿論、その中は一切片付けをしなかった。

そして、今、彼の目の前にはドアがあった。

『第五応接室』とプレートが掛かっているドア。

「……」

加原は、このドアの向こう側に誰がいるのか分かっていた。

いや、それが当たり前だった。

何せ、彼がここに連れてくるように伝えたのだから。

「……」

彼は、意を決しそれを開けた。

「お忙しい中、お呼び出ししてすみません」

中に入り、自分のことを待っていた一組の夫婦に挨拶をした。

そして、その言葉に反応し、その夫婦は腰を上げ、彼に会釈をした。

「息子さん――遙君のことで、お伝えしないといけないことがあるんです」

彼は、その場で二人にそのことを伝えた。

そして、それを訊いた夫婦は、その場で泣き崩れた。

「……」

一体、自分はこんなことを何度経験し、何度目にしてきたことか。

だが、何度も経験し、目にしたとしても慣れないものだ。

特に――今回だけは、重い。

「すみませんでした……」

彼は、その場で謝った。頭を深く下げた。

自分が悪いわけでもないのに――でも、それをしたくなった。

泣き崩れている遙の両親に。

そして、彼はその場を去った。

早めに去ることしか、彼に出来ることはなかった。


「……」

僕は、全てをこよみに教え終わった。

自分の異変を知ったときと、はじめの発作が起きたとき――などなど。

「…………ね」

僕が教えてる最中に、俯いてしまったこよみが呟いた。

けど、その声は小さすぎ、何を言ってるのか聞き取れなかった。

「ごめんね」

聞き取れた。

彼女の謝罪の言葉が――

そして、俯いていた顔を上げると――泣いていた。

涙を流していたが、声は震えていなかった。

「……こよみ……」

「ごめんね……」

「何で……お前が謝るんだよ?お前が謝る理由なんてないんだろ?」

僕には、分からなかった。

こよみが謝る理由が――

謝るのは自分のほうだと理解してるのに――

「だって、だって」

それでも、こよみは泣いていた。

涙を流していた。

「わたしが――」

僕は、こよみが何かを言い出す前に行動に移った。

身体が動いたからこそ出来たものだった。

僕は、こよみを抱いた。

丁度、僕の脇にいたから、少し麻痺っている下半身を動かす必要がなかった。

「お前は謝る必要なんてないんだ」

そして、僕は再び語った。

「僕は、幸せだよ。だから、謝らなくていいよ」

「遙ちゃん」

「こよみと一緒にいられたことが、とても嬉しい。こよみが僕の隣にいてくれて、とても嬉しい。だから、謝らないで欲しい」

「う……うぁ」

どうやら我慢していたみたいだ。

でも、いつかそれには限界が来るものだ。

こよみは涙を流し、声に出して泣かないようにしていたみたいだけど、限界。

「ありがとう。こよみ」

僕は、その言葉を囁いた。

そして、こよみは僕の胸に顔を埋め、本格的に泣いた。

声を上げ、泣いた。

何度も訊いた、あの泣き声で。

何度も感じた、あの涙を流して。

「ありがとう。一緒にいてくれて」

でも、伝えたい。

僕の思いを――想いを――気持ちを――

「ありがとう……」

一時の沈黙。

ただ聞こえるのは、こよみの泣き声。

大切な人の泣き声。

「君と出逢えて、ありがとう」

僕は、泣いているこよみの髪を撫でた。

ありがとう。

と、心の中で呟き――

何度も、何度も。


死んでいく僕が、残せる言葉を何度も何度も。


時間と言うものは、いろいろとあると早いものだ。

午後になり、久樹がやってきた。

そして、こよみを連れて帰っていった。

その後、すぐに両親がやってきた。

でも、ほんの数十分後には両親も帰った。

本来なら、僕も一緒に帰るべきだった。

だけど、僕は両親とは一緒に帰らなかった。

その理由は、加原先生のもとに行きたかったから。

両親も付いていくと言ってくれたけど、僕は断った。

僕一人で行きたいんだ。と、自分の意思を口にして――

すると、不思議なことに二人はあっさりと納得してくれた。

いや、たぶん分かっていたんだと思うな。

僕のことが――


そして、僕は加原先生に逢う為に、何度も訪れている彼の診察室前に来ていた。

僕は、ノックをした。

すると、ドアの向こうから加原先生の声が聞こえた。

「おう。こいや」

何度も聞いた、医師としてはやばいと思える仏頂面な言葉。

と言うか、躾そのものが感じられない言葉。

でも、僕は分かってるんだ。

加原先生は、僕の前でだけしかこの言葉を使わないことを――いや、僕だけじゃない。

このセンターに入院している子供たち全員にしか――

「おう。来たか、少年」

加原先生は、僕の顔を見て、そういった。

「ん。顔色抜群だな」

「先生。顔色抜群って初めて聞いた言葉だけど?」

僕は、溜め息混じりに呟いた。

そして、思い出した。

この人は、こういった人なのだと。

そして、この人が僕たちのことを見てくれたから、僕たちは絶望の中から希望や光を見つけ出すことが出来た。

だからこそ、僕はこの人に感謝してるんだ。

この人だけじゃない。

ここにいる人たちに。

「さて、明日から学校行くんだろ?」

「はい」

僕は答えた。

そして、更に加えた。

僕の本心を言葉にした本音を。

「最後の最後まで、僕は生きて、生きて、生きますよ」

「……そうだな」

微笑み。

加原先生は、僕のその言葉を聞いて、それを浮かべた。


ありがとうございます。


そして、僕は心の中で呟いた。

本当に口にしたかったけど、なんだか恥ずかしく、照れくさくなって出来なった。

でも、そのうち絶対に言おう。

いや、絶対に言えるよ。

あのときに――みんなへ。


夜。

僕は、父さんと母さんに挟まれた状態で家に帰ってきた。

懐かしい感じだったけど、ちょっと恥ずかしかった。

でも、嬉しかった。

そして、今僕たちは、居間に来ていた。

「父さん、母さん」

僕は、二人のことを呼んだ。

テレビを見ていたと二人が僕のほうを向いた。

「僕さ、卒業式まで絶対に生きるから」

僕は、二人に言った。


翌日。

いつもどおりの朝。

朝起きて、カレンダーに丸を付けて――

こよみと久樹と一緒に登校して――

クラスメートに挨拶して、いろんな話題を話し合って――

そして、今日から本格的に卒業式の練習が始まった。

この日の練習は、卒業生のみの練習だけ。

今日は、進行の説明を受け、その後に練習が始まった。

とはいっても、式の最中に歌う歌の練習だけだった。

卒業式のお約束となっている中学校の校歌。

後は、仰げば尊し。

この二曲だけの練習で終わった。

とはいっても、声をなかなか出せないのが現実で更に練習が必要だと改めて思い知らさせた。


その日の帰り。

「それにしてもさ、あと少しだよね」

こよみが笑顔を浮かべ、僕と久樹に言ってきた。

「ん?」

僕と久樹は同時に同じ言葉を呟いた。

「卒業式だよ。卒業式」

はしゃぐこよみ。

そして、そのさまを見てともに笑いあう僕ら。

幸せな時間だった。


そして、幾つかの日々が流れた。

その間の僕は、みんなと同じ日々を送っていられた。

だが、この日の朝はどこかしら違和感を感じた。

卒業式まで、残り一週間と迫った日だった。

自分でも違和感を感じたのは、朝起きてからだった。

その日、朝起きて、いつも通りにカレンダーの日付に丸を付けようとした。

が――違和感を知ったのはそのときだった。

いつもなら、はっきりと見えるはずだったが、この日は変に霞んでいた。

というか、歪んでいた。

その時は、まだ眼が醒めきっていないんだと、勝手に判断し、問題なしと決心した。

だが、それはなかなか取れることがなった。


でも、僕は学校を休みという選択が思いつかなかった。

ただ、学校に行きたかった。

だって、そう誓ったから。そう決心したから。


その日、家を出るときも父さんと母さんは心配顔で僕のことを送り出してくれた。

「大丈夫だから」、「平気だから」と、僕は二人に何度も言った。

でも、それは単なる気休めでしかないことぐらい、僕たちは理解していた。

だから、最終的には僕は二人にこういった。

「もし、つらくなったら早退してくるから」と。

でも、それだけで二人は納得してくれなかった。

だからって、僕も休み気にはなれなかった。

結局、僕の意思の勝利。


でも、それは間違っていたんだ。僕は、後々になってそれを知った。

このときは、何も知らなかった。


そして、いつもどおり桜並木道で二人と合流し、登校した。

「遙ちゃん?」

校門がすぐそこに近づいてきたときに、こよみが僕に聞いてきた。

その声は、憂いのものだった。そして、表情も。

「ん?」

「大丈夫?」

「え……」

内心、ドキッとした。

「なんか、変だよ?」

「へ……変って?」

「ん~、なんていうのかな?」

どうやら、こよみの読みは鋭いらしい。

とはいっても、確信までには至らないようで。

「ま~、もしつらくなったりしたら、早退でもするから、安心しろよ」

「う~ん……遙ちゃんがそういうなら、信じるよ」

だが、こよみはこよみだった。


そして、その日の授業も卒業式の練習だった。

それが始まるころには、朝方から感じていた違和感がいつの間にか消えていた。

どうやら、勘違いだったんだろう。と、僕は思った。

この日の練習は、昨日とほぼ同じだった。

歌の練習をやって、午前中が終了。

そして、午後からは卒業証書の受け取り方や、姿勢などの練習。

勿論、この日の昼食は三人で屋上で摂った。

ここまでは、平気だった。

なんともなかった。

この時までは――


午後の授業時間の開始を知らせるチャイムが鳴り、僕たちは体育館に移動することにした。

「遙、行こうぜ」

「遙ちゃん、行こうよ」

二人が僕の元に来た。

「あっ、うん」

そして、僕は椅子から立ち上がろうと腰を上げた瞬間――

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ