どうしてこうなった!?
初めて書いた作品です。
少しでも楽しんでいただけたら嬉しいです。
王城での大夜会。王家の威信をかけた豪華絢爛なその催しの片隅で、エルシア・ディゲンハイム(十四)はプルプルと震えていた。
目の前の男はエルシアを壁際に追い込み、両腕を壁について囲い込んだ上で息を荒く弾ませている。
恐怖で涙目になりながら、心の中で叫んだ。
「お巡りさん! この人です!」と。
*********
エルシアが前世の記憶を思い出したのは、淑女教育が始まる四歳の頃だった。
淑女教育の講師として訪れたローエンド前伯爵夫人を見た瞬間……『うわ、お局の野口さんに似てる。若い頃は美人だったんだろうけど、歳取って険が強くなったって感じだよね』と頭に浮かんだ。
――? 野口さん? お局??
聞き覚えのないはずの名前と単語のはずが、やけに馴染む。
「エルシア様?」
ローエンド前伯爵夫人が、気遣わしげにこちらの様子を窺う。
「い、いえ。なんでも……ございません」
反射的に背筋を伸ばし、四歳児らしからぬ速度で取り繕った。その瞬間、頭の奥で見た事のない光景が巡る。
――狭い部屋に所狭しと並べられたデスク。
――壁にはデカデカと「今月のノルマ!」と書かれたホワイトボード。
――お昼の時間もひっきりなしに鳴る電話。
『橘さん、さっき送ったファイル午後イチまでに修正して』
『……野口さん、これ私の担当じゃ』
『私が若い頃は率先して先輩を手伝ったのにねぇ……』
――ため息をつき、睨むようにこちらを見る野口さん。
「うわああああああっ!」
思い出した。全部、思い出してしまった。私はかつて、日本という国で会社員をしていた。
ちょっとだけニッチな製造業の企業に勤める一般事務員。AIが台頭して人間の仕事が無くなるかも! なんて時代に、営業マンが持ってきた紙の見積もりやら請求書やらをひたすら処理してた。小さい会社だから、事務といっても経理も庶務も何もかもやらなきゃいけない……そんな場所で同じ職務の一人きりの先輩である野口さんは殆どの仕事を私に丸投げしては、推し活とやらで早上がりしていた。
そしてある冬の日。年末年始にかかる繁忙期で毎日深夜を越える残業に明け暮れ疲弊していて、ようやく定時で帰れたと思ったら……駅の階段を下りている途中、目の前が真っ暗になったんだった。
そこから先の記憶はない。
「転生ってこと?」
「てん、せい?」
ローエンド前伯爵夫人が怪訝そうに聞き返す。まずい! と、エルシアは勢いよく首を振る。
「天性の! 淑女になりたいと! そう申し上げました!」
「……よい心持ちですわね」
絶対に信じていない顔。だが、幸か不幸かローエンド前伯爵夫人は野口さんと違って職業意識の高い人だった。
「ではまず、淑女がそのように大声を上げてはいけませんわ」
「は、はい……」
四歳にして、エルシアの第二の人生は淑女教育という名の地獄から始まったのだった。
その後、前世の記憶を取り戻してもさほど混乱せずに過ごせたのは僥倖だった。
エルシアが集めたこの世界の情報によると、ディゲンハイム侯爵家は、王国でも指折りの名門であり、父は国王の信任厚い宰相補佐。母は社交界の華と呼ばれるとてつもない美人。五つ上の兄は神童と名高く見目も麗しい。そして自分は末娘。ここまではいい。
問題は別にある。なんか知ってる。この名前、家族構成。乙女ゲームは嗜んでないが、通勤時にウェブ小説を片っ端から読んでいた。その中に私と同じ名前の人物がいたような気がする。
名門貴族たちの家名。さらには、これから数年以内に起こる予定の出来事まで。
全部どこかで聞いた覚えがある。が、思い出せない。
思い出せないものは仕方ないが、異世界恋愛系テンプレなら、平民出身の希少な光魔法の才能を持つヒロインが王立学院へ入り、王太子や騎士団長の息子、宰相家の秀才、謎めいた留学生などと恋に落ちていく……みたいなやつで、悪役令嬢が断罪されてハッピーエンド、もしくは逆ざまぁで悪役令嬢のハッピーエンド……のはず。
でもこの王国に貴族がみんなで通う学院なんてない。せいぜいが騎士学校で、文官になるにも、侍女になるにも、基本的には実地だ。だから学院から広がる恋愛模様なんて超がつくテンプレ展開はないはずだ。多分。
とはいえ、侯爵令嬢で家族から溺愛される我儘娘ときたら……
「悪役令嬢じゃん!」
エルシアは絶望した。
野口さん……じゃなかったローエンド前伯爵夫人から指導を受けて、大分淑女らしくなってきたとはいえ、高位貴族の令嬢ともなればデビュタント前に人前に出る機会は茶会くらいしかない。
ほぼほぼ接点のない貴族からは傲慢なお嬢様イメージはあるだろう。何もしてなくても悪役令嬢扱いされる可能性はゼロじゃない。高慢で嫉妬深く、選民意識が強いご令嬢ってやつ。
ひとまず、ヒロインや攻略対象?ぽい人は絶対に避けること。単なる恋愛沙汰で死刑になる世界なんてこっちから願い下げだが、それが現実なら避けるしかない。そしてエルシアは決意した。
――目立たず、慎ましく、平穏に。
小さな拳を握る――よし、長生きしよう。
前世は二十四歳で死んだのだと思う。大学出て新卒で入った会社の二年目で人生終わったなんて、ちょっと悲しい。
中高大と恋人もいなかったし、ほんのり片思いしてた人はみんな綺麗な彼女がいた。今世では八十歳まで生きたい。できれば九十歳。健康寿命超大事。さらにかっこいい恋人というか、夫ができたら嬉しい。
結婚できなかったとしても、お兄さまと仲良くしてれば老後資金については心配なさそう。目指せ! ハッピーシルバーライフ!
――そう考えていた時期が、私にもありました。
十年後。春の大夜会でデビュタントを迎えることになったエルシアは王城にいた。お父さまのエスコートで楚々とした佇まいの麗しい令嬢ぶりを披露出来たと思う。野口さん、じゃなくてローエンド前伯爵夫人の指導の賜物である。
艶やかな銀髪をハーフアップにし、瞳の色と同じアレキサンドライトをあしらった髪留めでまとめ、小柄でありながら柔らかな曲線が目立つ肢体を、真っ白な絹に銀糸で細やかな刺繍を施したドレスで包んでいる。見るからにデビュタントのご令嬢という風情である。
陛下方にご挨拶して、デビュタントの祝いの品を受け取り、お父さまとダンスを踊って――
「エルシア嬢」
少し休みたいとお父さまに伝えて、侍女のところへ向かおうとしたところ声がかけられた。振り返ると目の前には、この国の第二王子――レオンハルト・アーデル殿下、十六歳が……。白金のゆるやかな癖毛を片側だけ撫で付けて、金色の飴みたいな瞳にはバサバサの睫毛がくっついてる。私よりも頭二つ分くらい背が高く、細身ながらヒョロガリという感じでもない。無茶苦茶イケメン。
あー……絶対攻略対象の一人だよね? だから避けまくってたのに、何で声かけてくるわけ?
おかしい。
十年間、細心の注意を払って生きてきた。それっぽい人には必要以上に近づかなかった。
七歳の時にあった王家主催のお茶会では、開始早々に従弟を池に落とすという荒業まで使って途中退席した。従弟には深く恨まれたが、その後彼が片思いする友人のご令嬢との仲を取り持ち事なきを得た。申し訳ないという気持ちはあるし、起こってないことを危惧している愚かさも十分に分かっているけど危機管理は大切。
それ以降は殿方との出会いの場を避けに避けまくって今日まで来たのだ。これまで完璧だった。……完璧だったはずなのだ。
「エルシア嬢?」
レオンハルト様がさらに一歩近づく。エルシアが一歩下がると背中に硬い感触。
「……あ」
――壁だ。これは詰んだ。
侍女を探してうっかり人気のない廊下に出てしまったらしい。
廊下にはいくつもの大窓が並び、月明かりで窓枠がくり抜かれたような影を落としている。
遠くにはワルツが聞こえ、時折若い令嬢たちの笑い声や、令息たちの話し声もするというのに……扉一つ隔てたこの場所は、誰もいないせいか静か過ぎる。
レオンハルト様はさらに距離を詰めると、エルシアの左右に両手をついた。いわゆる壁ドンである。
前世なら「少女漫画かよ」と笑えたかもしれない。だが実際に身長差二十センチ以上の男子にやられると、普通に怖い。しかも相手は王族。
逃げようとして蹴った場合、不敬罪になるのだろうか。焦りで声も出ず、動くこともできない。どうしたらいいの? お父さま、お母さま、お兄さま、助けて!
「なぜ」
レオンハルト様の声が低くなる。なぜか息が荒い。金色の瞳が、妙に切羽詰まった光を帯びている。
「なぜ君は、私を見ると逃げるんだ」
「……気のせいでは?」
「十年だぞ」
「はい?」
「十年間、私は君に避けられている」
エルシアは固まった。十年間? 数字がおかしい。王家主催のお茶会からは確かに七年経っているが、その前に会う機会などなかった。どゆこと?
「初めて会う予定だった庭園には来なかった」
――予定だった?
「狩猟大会にも」
――ん?
「七年前の茶会では、私が君に声をかけようとした瞬間、従弟を池へ突き落とした」
「事故です」
「あれを事故と言い張るのか?」
「彼が突然、水と一つになりたそうな顔をしたので」
「していなかった」
即答された。思わずエルシアは心の中で舌打ちする。
「私と殿下がお会いしたのは、七年前のお茶会のみですよね?」
レオンハルトがぐっと顔を近づけた。
「ずっと婚約の打診をしていただろう? だから顔合わせのために庭園に誘った。君が四歳を過ぎた頃だ」
「そんな話、知りませんけど……」
どういうこと? お父さまが断ってた??
そういえば一度だけ婚約者が欲しいか聞かれたような……。その時、ずっとお父さまと一緒がいいから婚約者なんていらない! とか何とか答えた……かな……?
「しかも……」と、殿下は私の言葉に答えずに続ける。
「狩猟大会にも誘った。これも断られた。そしてようやくお茶会に来てくれたと思ったら、挨拶もせずに帰って行った」
従弟を池ぽちゃさせた日ね。うん。確かに挨拶もせずに帰ったわ。不敬と言われなくて良かった。
「だが、一番理解できないのは――」と、殿下は鼻がくっつきそうなくらい顔を寄せてきた。
ごくり。エルシアの喉が鳴る。
「なぜ君は、一度も正式に私と会ったこともないのに避けたんだ?」
「…………」
やばい。猛烈にやばい。なんなの、この自信。俺を好きにならないなんて、とかそゆこと?
レオンハルト様は神童と呼ばれるお兄さまと同じくらい賢く、武にも優れ、八つ上の王太子殿下に迫る勢いで人気のある王子様である。
私は四歳でご長寿になるぞ! の目標を立ててから、お父さまにお願いし、侯爵家の影の力を借りて攻略対象になりそうな方々の予定を調べ、偶然にでも絶対に会うことがないよう立ち回っていた。
王家が婚約の打診をしていたなら、なぜこんなに会えないのか不思議だっただろうし、調べてもいたのだろう。
もっと早く権力をかざして登城を命じても良かったのに、それもせず自然に会おうとしてくれてたのだろうか。避けられてることを知って、気を使っていた?
「誰か他に思う人がいるのかと調べたが、何も出なかった。お茶会に来ていた従弟も疑ったが、君の友人の伯爵令嬢と婚約できるように奔走していたよね。だから彼は思い人ではない」
一歩も逃げられない距離で見つめ合う。
「僕は優良物件だと思うけどね。何が気に入らなかった?」
エルシアの背筋を冷たい汗が伝った。
「違います。気に入らないなんて、そんな……」
「では説明してくれ」
「女の勘です」
「四歳から?」
「早熟でしたので」
この会話の間、二人はずっと至近距離である。うっかりチュッとしちゃうくらいの距離感だ。
でも不敬だと断罪されて死ぬかもしれない恐怖に支配された私はキュンともせずに、どうしたら逃げられるかだけを考えていた。
「エルシア」
初めて、呼び捨てにされた。エルシアの肩が跳ねる。
レオンハルト様はしばらく黙って、やがて絞り出すような声で言った。
「私は……君に何かしたのか?」
「え?」
「嫌われるようなことを」
予想外だった。怒っているのだと思っていた。追及されているのだと思っていた。
だが近くで見る彼の顔は、怒りよりもむしろ――傷ついているように見えた。
「会話すらしたことのない頃から避けられた」
「……」
「理由だけでも教えてくれ」
エルシアは困った。どう説明すればいいのか。
私は悪役令嬢だと思われたくないんですよ、とか。平穏無事に人生を過ごしたいんです、とか。あなたは異世界恋愛の小説のヒーローかもしれないから、将来ヤンデレ化してヒロインを監禁する可能性があります、とでも?
無理だ。無理過ぎる。妄想女と思われるだけでなく、なんかヤバい施設に放り込まれるかも……。
「殿下」
「なんだ」
「まず、腕をどけていただけますか」
「断る」
「はぁ?」
「どけたら逃げるだろう」
「逃げますよ!」
「ほらな!」
「認めさせるための質問だったんですか!?」
思わず素で叫んだ。レオンハルト様の目が丸くなる。
エルシアも「あ」と口を押さえた。
その直後。
「……ふ」
レオンハルトの肩が震えた。
「……くくっ」
「殿下?」
「君、そんな話し方をするんだな。遠くから見てるだけじゃ分からなかったけど、可愛いな」
笑った。その眩しい笑顔を向けられたら普通の令嬢なら卒倒してもおかしくない。
でも、エルシアは別の意味で震えた。
――まずい。これ、おもしれー女フラグとか立ってないよね?
前世の知識が警鐘を鳴らしている。壁についた手が退けられた隙にさっとレオンハルト様の斜めに抜け出し、キッと彼を睨み据えた。
「待って」
「何が?」
「今、私の好感度上がりました?」
「こうかんど?」
「下げてください」
「何を?」
「今すぐ!」
「意味がわからない」
エルシアは頭を抱えたくなった。
頑張って逃げ続けた結果、攻略対象の興味を十年かけて熟成させてしまったってこと?
前世の職場で上司から聞いた言葉が、脳裏によみがえった。
『問題ってのは放置すると大きくなるんだよ、橘』
ほんとそれ。いや本当にね……。
レオンハルト様がジリジリと距離を詰める。
「エルシア」
「はい……」
「今夜こそ、逃がさない」
その言葉に。
エルシア・ディゲンハイム十四歳は、恐怖で涙目になりながら心の中で叫んだ。
「お巡りさん! この人です!」と。
*********
レオンハルトが生まれた時、すでに兄の第一王子は八歳で立太子が確実とされていた。
天才肌ではないが、努力を厭わず、すべてをそつなくこなす。
さらに、五歳の頃から相愛の婚約者は建国から続く家柄の公爵家のご令嬢で、ものすごく溺愛していることから将来も明るいとみんなが思っていた。
だから、第二王子として生まれた僕は兄上とその治世を支えればよく、両肩にすべてを乗せた兄よりずっと身軽な立場だ。
元来器用な資質だったこと、ほどよく気を抜いていられたこともあるのか、勉学は常に優秀と評され、剣術もやればやるほど上達し、レオンハルトは優秀な王子と讃えられた。
僕が四歳になった時、ディゲンハイム侯爵の子息が王家主催のお茶会にやってきた。七歳になった貴族の令息令嬢を招いて交流するもので、毎年開かれている。
美しい銀髪に紫の瞳、神童と名高い令息を一目見たいと母上にねだり、僕も参加することになった。
普通の四歳よりは大人びていたとは思うが、やはり幼かったのだろう。次々と挨拶にくる令息令嬢はみな歳上なので気後れし、護衛を連れて少し離れたテーブルに向かった。
そこにはエルシアの兄であるジェラルドがいた。
何やらテーブルの後ろの植え込みに向かって話しかけている。
そっと反対側に回り込み植え込みの向こうを見てみると……そこにはジェラルドと同じ銀髪の女の子を抱っこしたディゲンハイム侯爵がいた。
二人はこちらに気がつかずジェラルドと何やら話しているらしい。
「にーたま、おちゃ、おいち?」
「うん。美味しいよ。さすが王城の侍女だね。お菓子も全部美味しいけど、まだエルには早いかな?」
そんなことを優しい声音で語りかけるジェラルドとその妹であろう女の子が何だか羨ましかった。
兄上と仲が悪いわけじゃない。でも兄上とは歳も離れているし、王太子教育で忙しく、その合間に溺愛する婚約者と会うことを優先しているのでレオンハルトとは食事の時しか会うことはない。
使用人に囲まれていても、ほんの少し孤独を感じていた心に兄妹の会話がじわじわと沁みて暗い影を落とす。
侯爵家の令息が、こんな風にお茶会に参加できない年齢の妹とこっそり話しているのはマナー違反だろうし、それを言うなら連れてきた侯爵も同様だ。
でもマナーがどうであれ家族の普通の会話に飢えていた僕には眩しく映った。
その時、「あ」という女の子の小さな声がして、僕は思わずじっくりそちらに目を向けてしまった。
侯爵の腕の中で、その女の子は僕に満面の笑みを向けた。
「とーたま、ようせいしゃん、いるよー」
侯爵はギョッとして僕を見ると、慌てて礼をする。ジェラルドも僕に気がつき、慌てて駆け寄ると正式な礼を執ろうとした。
僕はそれを手で制し、ジェラルドと侯爵に視線を向け、無言で立ち去った。
背後では女の子の小さな声がする。
「エルは、とーたまとにーたまより、ようせいさんがすきかも。ようせいさんは、おかしなにがすきかな? エルとおちゃかいしてくれるかな」
その言葉に胸がドキドキして、一瞬で顔が火照る。
振り返ることはできない。でも、さっきの笑顔の子がそう言ってくれたんだと思うと、暗かった気持ちが一気に温かくなり、頬が緩む。
どうしよう。家族以外の誰かを、特別に思うってこういうことかも。兄上と婚約者の令嬢のように、あの子が僕の唯一になってくれるかも。
その後、彼女の情報を集めて何度も自問自答して、やっぱり好きだと思ったのは二年後。父王に願い出て婚約の打診をしてもらうも、すげなく断られ、さらに十年もの間エルシアを追い回すことになるとは、この時の僕は知らなかったのだった。




