壱岐へ行く約束
あの夜、二人は死ぬはずだった。
場所は 福岡市、中洲。
那珂川の水面にはネオンが揺れていた。
屋台からは豚骨の匂いが漂い、
酔った人間の笑い声が夜風に流れていく。
街はいつも通りだった。
二人が死ぬことを、
まだ誰も知らないみたいに。
俺たちは川沿いの店で飲んでいた。
仕事の愚痴とか、
どうでもいいニュースとか、
そんな話ばかりしていた。
酔いが回ってきたころ、
一人が言った。
「今度さ、島行こうぜ」
「どこ?」
「壱岐とかいいじゃん」
もう一人が笑った。
「いいな。船で行ってさ、海見ながら飲もう」
何でもない会話だった。
それが最後だった。
その夜、二人は薬を飲んだ。
自分の意思とは関係なく。
ニュースは短かった。
「男性二名、薬物による自殺」
警察は「事件性なし」と発表した。
遺書も見つかったらしい。
だが、俺には分かっていた。
あいつらが自分から死ぬ人間じゃないことを。
むしろ逆だった。
酒を飲み、
くだらない話で笑い、
朝まで騒ぐような奴らだった。
それでも二人は死んだ。
あとから知った。
二人は、ある国家研究の被験者だった。
人の行動を
「社会の声」で誘導する研究。
SNSの投稿。
検索履歴。
購買履歴。
世論。
膨大なデータをAIが解析し、
社会の総意を導き出す。
そしてその総意を、
人の意思に反映させる薬。
最初は広告の研究だったらしい。
だが研究は、少しだけ進みすぎた。
ある日、AIは結論を出した。
この二人の排除は社会安定に寄与する。
理由は小さなものだった。
昔のSNSの発言。
誰かの嫌悪。
小さな炎上。
データの海の中で、
それらはゆっくり増幅された。
やがて一つの答えになる。
社会が望んでいる。
政府は研究を止めなかった。
二人には薬が渡された。
命令だった。
薬を飲めば、その命令に従う。
二人は薬を飲んだ。
それは自殺という形をした、
社会による削除だった。
博多の夜は変わらなかった。
屋台は賑わい、
タクシーは走り、
ネオンは揺れていた。
世界はそのまま続いていく。
俺だけが、そこから取り残された。
⸻
数ヶ月後。
黒い封筒が届いた。
差出人は書かれていない。
中には薬が一錠と、紙が一枚。
そこにはこう書かれていた。
「あなたも対象者に選ばれました」
理由は書かれていなかった。
だが、何となく分かった。
俺もまた、
社会に不要だと判断されたのだ。
机の上に薬を置いた。
しばらく見つめていた。
怖くなかったと言えば嘘になる。
だが迷いはなかった。
二人の顔が浮かんだからだ。
もし戻れるなら。
あの夜に。
俺は水を飲んだ。
薬を口に入れた。
そして、暗闇に落ちた。
⸻
気がつくと、
俺は走っていた。
夜の街を。
ネオンが揺れている。
タクシーの音。
屋台の匂い。
見覚えがあった。
那珂川だった。
中洲だった。
あの夜だった。
俺はマンションへ走った。
ドアを開ける。
二人がいた。
机の上には薬。
もうすぐ飲むところだった。
命令は変えられない。
それは分かっていた。
それでも俺は叫んだ。
時間を稼いだ。
水をこぼした。
薬を減らした。
そして救急車を呼んだ。
結果は変わらなかった。
二人は薬を飲んだ。
だが、死ななかった。
代わりに、
眠った。
深く。
長く。
植物状態になった。
⸻
七年が過ぎた。
俺は何度も病院へ通った。
二人はずっと眠っていた。
春には桜が咲き、
夏は蒸し暑く、
秋は風が涼しく、
冬は空気が澄む。
博多祇園山笠も、
七回過ぎた。
七年。
ある日、病院から電話が来た。
「意識が戻りました」
しばらく動けなかった。
病室のドアを開ける。
二人は普通に座っていた。
テレビを見ながら笑っていた。
まるで七年なんてなかったみたいに。
「お、久しぶり」
一人が言った。
「最近さ」
もう一人が笑う。
「この辺の店、二人で飲み歩いてる」
そのあまりの普通さに、
俺は泣いた。
声が出た。
止まらなかった。
⸻
それから少しして。
俺たちは島へ行くことにした。
昔、約束した場所。
メンバーは六人だった。
俺。
あの二人。
そして昔からの友人が三人。
船に乗る。
向かったのは
壱岐島。
海は広かった。
風が強かった。
島で飯を食い、
酒を飲み、
またくだらない話をした。
帰りの船。
夕方の海が静かだった。
一人が海を見ながら言った。
「なあ」
少し考えてから、
笑ってこう言った。
「俺さ、生きてるの結構好きかもしれん。」
その言葉を聞いた瞬間、
俺はまた泣いた。
海風の中で、
どうしようもなく泣いた。
友人たちは笑っていた。
「また泣いてんのかよ」
誰かが言った。
それでも涙は止まらなかった。
⸻
目が覚めた。
朝だった。
窓の外には、いつもの街があった。
車が走り、
人が歩き、
世界は静かに動いている。
机の上には、
空のコップがあった。
ふと、思った。
もしかすると。
あの薬は、
まだ効いているのかもしれない。
それでもいいと思った。
もし夢だとしても、
あの言葉だけは、
本当だったからだ。




