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記憶喪失

「馬車の馬が突然暴れ出して、それで頭を強く打ったのです。お医者様は意識の混濁はあるかもしれないとおっしゃってましたが……」

とキャサリンは言った。


「そうか……どうもそのようだね。意識が混濁している。だからすまないが、いろいろ質問などをするかもしれない。どうか心配しないでくれ」

と私は言った。


こういう時は、安心をうながすようなアナウンスをするのが、プロとしての当然の義務だと、なぜかそう思った。


「では、なにかお聞きになりたいことは?」

とキャサリンは尋ねた。


「そこの可愛いお嬢さんは」

と私は言った。


「ピノ、お父様が、あなたは誰ですかとお尋ねですよ」

とキャサリンは笑った。


「まぁひどい。お父様ったら、大事な一人娘のことをお忘れだなんて」

とピノは頬を膨らませた。


「ピノ・オーガスト……私の娘。私がジュピター・オーゲスト。そして君が最愛の妻のキャサリン・オーゲスト」

と私は言った。


「そうよ。よくできました」

とキャサリンは私を抱きしめた。

その身体は少し震えていた。


「すまない、キャサリン。怖かったのかい?」

と私は尋ねた。


「えぇ。怖かったですとも。もしあなたが亡くなったなら、天国まで追いかけて、ぶん殴ってでも連れ帰ろうと思ってましたわ」

とキャサリンは鼻をすすりながら言った。


「それは頼もしいな」

と私は言った。


キャサリンが食事を用意するというので、頭を整理することにした。

私は亡くなり、

別の世界に転生したようだ。

美しい妻と、可愛い娘がいる。

これだけでも、第二の人生としては、申し分ない。

私は部屋の中を見渡す。

カバンが置いてあった。

私はカバンを開けると、中には書類があった。

見たことのない字ではあるが、言葉とその意味はわかる。

そういえば、妻と娘とも普通に会話ができていた。

転生といっても、言語のあたりは、特に遜色がなさそうだ。


日常生活は、多少前世と常識が違うだろうが、

相手が妻と娘なら、頭を打ったことでごまかせるとして、

仕事はどうだろう。


とりあえず、書類を把握することにする。

書類によると、

このあたりは宿場のようで、私はその奉行職をやっているようだ。


このあたりを自分の知識とあわせて、確認していくことにしよう。


「あなた、食事ができましたよ」

とキャサリンの声がする。


私は部屋を出て、声のしたほうに向かう。

そこにはキャサリンと娘がいた。


これはなんの匂いだろう。


「今日はなにかな?」

と私は言った。


「今日はカブのスープとチーズとパンです」

とキャサリンは言った。


私はテーブルに座り、皆の様子を見ながら、見よう見まねで食べはじめる。

カブのスープは塩味で、チーズは匂いがきつく、パンは堅かった。


馬車が使われているところや、食事や建物の雰囲気からすると、中世くらいの時代だろう。


「私の仕事について、なにか知っているかい?」

と私は娘に尋ねた。


「お父様は宿場奉行よ」

とピノは答えた。


「すごいね。じゃあ宿場奉行の仕事って何かな」

と私は尋ねた。


ピノは困った顔をしている。


「ほら、前に教えてあげたでしょ」

とキャサリンはピノの頭を撫でた。


「この宿場町がうまくいくようにしているお仕事」

とピノは言った。


「そうか。よく勉強しているね」

と私は答えた。


「まぁでもあなたの仕事って、正直説明しづらいわね」

とキャサリンは言った。


「それはなぜかな?」

と私は尋ねた。


「正直、いろいろできることが多すぎて、単純に八百屋とか、農家とかって説明ができないじゃない」

とキャサリンは答えた。


「いろんな権限がある仕事ってことだね」

と私は言った。


「うん。そう聞いたよ」

とピノは答えた。


「キャサリン。一つ聞いていいかい?

私の仕事の目指すところって何なんだろう」

と私は尋ねた。


「そうね。あなたがよく言っていたのは、この街を混乱させないことだって」

とキャサリンは答えた。


「街を混乱させないことか……」

と私は呟いた。


「それ、お父様がよく言ってた」

とピノは足をバタバタさせる。


「そうね。お父様は毎日混乱させないために働いて、自分が混乱していたものね」

とキャサリンは笑った。


そうか……

転生先でも、私はダイヤを描くことができるのかもしれない。

そう思った。


「私は仕事が好きかもしれない」

と私は言った。


「そうよ。お父様は仕事が好き。お仕事中毒ってみんな言ってるわ」

とピノは笑った。


「ダメでしょ。オブラートに包まなきゃ」

とキャサリンは笑った。


つまり、私の仕事は宿場奉行。

やることは、

スジ屋よりはるかに多くなり、煩雑になるが、

パソコンもAIもない世界なら、

私の出番がたっぷりある。


そのことに気が付いた。


私は部屋の窓を開け、外の世界を見た。

石造りの建物ばかりの街並み。

車は一つもなく、

馬車や馬が行き来する道路。

煙突から立ち昇る煙。


まさに不便の塊のような街だった。


便利さは人々を快適にさせた。

しかし便利さは人々からやる気と仕事を奪った。

私は不便な街に転生した。

そして、

私はこの街を便利にするべく、

動き出そうとしている。

私の行動は、人々からやる気と仕事を奪うかもしれない。

でも、

スジ屋としての本能が、

それを止めることを許さない。

この街を快適にさせる。

そのことを想像するだけで、

心が震える。

気持ちが高まる。

あぁこの感覚だったのか。

私が追い求めていたものは……。

私は人生で初めて、

自分の根本に気が付いた。

私は、

自分の知恵と工夫で、

この世界を美しく変えたいのだ。

スジ屋が線で美しいダイヤを描くように、

混沌という原石から、美しいダイヤを削り出す。

それが恍惚なんだと。


(ごんごんごんごん……オーゲストさん。また宿場同士で喧嘩なんですよ)

男の声が聞こえた。


「あれは誰の声かな」

と私は尋ねた。


「あれはハンケルさん」

とピノは言った。


「あなたの部下ですよ。行ってあげてください」

とキャサリンは答えた。


「すまないが、私は記憶が混乱している。それでも大丈夫だろうか」

と私は尋ねた。


「ハンケルさんは、あなたが頭を打ったことも知ってますし、私の親戚で信頼できる方ですから、大丈夫ですよ」

とキャサリンは答えた。


「わかった。じゃあ行くことにするよ」

と私は言った。


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