第9章:すれ違いの始まり
絶望の淵に立たされた美咲の心は、固く閉ざされてしまった。一条に対する態度が、ぎこちなく、よそよそしくなっていくのを自分でも止められない。彼の顔を見るたびに、頭の中を「見合い話」と「契約終了」という二つの言葉が駆け巡り、胸が締め付けられるように痛むのだ。
会社で、一条が何かを話しかけようと美咲のデスクに近づいてきても、彼女は「すみません、今、取り込んでいますので」と、パソコンの画面から目を離さずに冷たく言い放ってしまう。その度に、一条が傷ついたような、戸惑ったような表情で立ち去っていくのを、視界の端で感じてはいた。けれど、どうすることもできなかった。優しくされればされるほど、自分たちの立場の違いを思い知らされて、辛くなるだけだったから。
週末のラーメン巡りは、もはや楽しい時間ではなく、苦痛な義務に変わっていた。
「最近、何かあったのか? 俺に、何か隠してるだろう」
ある夜、醤油とんこつラーメンの店で、一条が耐えかねたように切り出した。彼の声には、心配と、ほんの少しの苛立ちが混じっていた。
「……何もありません」
美咲は、丼に顔を埋めるようにして、それだけを答える。本当は、すべてを打ち明けてしまいたかった。お見合いの話を聞いて、すごく不安なこと。契約が更新されないかもしれない恐怖で、押しつぶされそうなこと。そして、そんなあなたと、こんな不安定な私では、釣り合わないと思ってしまうこと。
でも、そんなことを言えるはずがなかった。それは、彼の重荷になるだけだ。それに、彼に「そんなことで悩んでいたのか?」と呆れられてしまうのが怖かった。
「本当に、何もないんだな?」
「……はい」
美咲の心からのものではない返事に、一条の表情がみるみる硬くなっていく。彼は、静かに箸を置いた。
「そうか。……分かった」
その声は、ひどく冷たく響いた。そして、彼は美咲の態度を、自分なりに解釈してしまっていた。
(俺との時間に、飽きたのではないか?)
最初は、秘密を知られた気まずさから始まった関係だ。無理に付き合わせていたのかもしれない。最近、少し距離が縮まったと思っていたのは、自分だけの勘違いだったのだろうか。彼女にとって、このラーメン巡りは、もう楽しいものではなくなってしまったのかもしれない。そう思うと、一条の胸にも苦いものがこみ上げてきた。プライドが、それ以上美咲に問い詰めることを許さなかった。
その日の帰り道、二人の間に会話は一切なかった。ただ、気まずく、冷たい空気が流れるだけ。駅の改札で、一条は美咲の方を見ずに、吐き捨てるように言った。
「じゃあ、これで」
その背中は、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。その背中に向かって、美咲は「ごめんなさい」と心の中で呟くことしかできなかった。
週が明けても、二人の関係は修復されるどころか、さらに悪化していった。オフィスでは、必要最低限の業務連絡以外、一切言葉を交わさない。すれ違っても、お互いに目を逸らす。そのよそよそしい雰囲気は、周りの同僚たちも気づくほどだった。
「ねえ、佐藤さん、一条部長と何かあったの?」
「最近、二人とも雰囲気がピリピリしてるけど……」
心配する声もかけられたが、美咲は「いえ、何も」と力なく笑うだけだった。
一条は一条で、美咲の冷たい態度に自尊心を傷つけられ、彼女を避けるようになっていた。仕事で指示を出す時も、わざわざ他の社員を介して伝える始末だ。完璧な彼が見せる、その子供っぽい意地のような態度が、美咲の心をさらに抉った。
好きだから、辛い。辛いから、避けてしまう。避けるから、彼も離れていく。
負のスパイラルから抜け出せないまま、時間だけが過ぎていった。かつて、金曜日の夜を心待ちにしていた気持ちは、もうどこにもない。スマートフォンに届く、彼からの『今夜は』という定型文のメッセージが、ただただ重荷に感じるようになっていた。
二人の心を温めてくれたはずの一杯のラーメンが、今はただ、すれ違いの象徴のように、冷たく横たわっているだけだった。




