第7章:それぞれの過去、交差する想い
雨の夜のアクシデント以来、美咲と一条の間の空気は、ほんの少しだけ変化していた。会社での態度は相変わらずの上司と部下。しかし、すれ違う瞬間に交わされる視線には、以前にはなかった戸惑いと、そして確かな熱が込められているように感じられた。
次のラーメン巡りの約束の日。一条から来たメッセージは、いつもと少し違っていた。
『今夜はラーメンじゃない。少し、話がしたい』
指定されたのは、都心から少し離れた、古民家を改装した隠れ家的な居酒屋だった。暖簾をくぐると、ジャズが静かに流れる落ち着いた空間が広がっている。美咲が案内された個室には、すでに一条が座っていた。変装はしておらず、仕事帰りのスーツ姿のままだ。そのことが、今夜がいつもとは違う、特別な時間であることを物語っていた。
「急に呼び出してすまない」
「いえ……。お店、素敵ですね」
ぎこちなく席に着くと、彼は「君が好きそうだと思ってな」と、はにかむように言った。その言葉に、胸が温かくなる。彼はちゃんと、私のことを考えてくれている。
まずはビールで乾杯し、お通しの煮物をつまむ。美味しい料理とお酒が、二人の間の緊張をゆっくりと溶かしていく。しばらくは、仕事のことや、最近面白かった映画のことなど、とりとめのない話をした。けれど、お互いに、本当に話したいことは別にあるのだと分かっていた。
ビールを二杯ほど空けた頃だろうか。日本酒をちびりと飲みながら、一条がぽつりと口を開いた。
「……うちの家は、代々続く医者の家系なんだ」
美咲は、黙って彼の言葉に耳を傾けた。
「俺も当然、医者になるものだと思われて育った。勉強も運動も、常に一番でなければならなかった。『一条家の長男として、完璧であれ』。それが、親父の口癖だった」
彼の声は、静かだった。けれど、その声色には、幼い頃から背負わされてきた重圧の跡が、色濃く滲んでいた。
「反発したかった。でも、できなかった。親の期待に応えるのが、良い息子の務めだと思っていたからな。結局、医学部を受験した。……そして、落ちた」
初めて聞く彼の過去。社内では「社長の甥」という噂がまことしやかに囁かれているが、その華やかな経歴の裏に、そんな挫折があったとは思いもしなかった。
「親父は激怒し、俺を勘当同然に扱った。そんな時、手を差し伸べてくれたのが、母方の伯父……今のうちの社長だ。商社の世界なら、お前の完璧主義も活かせるだろう、と。そこから、死に物狂いで働いた。誰にも負けたくなかった。親父に、見返してやりたかったんだ」
彼のグラスを持つ指に、力がこもる。完璧なエリート部長の鎧の下に隠された、彼の人間らしい弱さと葛藤。その一つ一つが、美咲の心にじんわりと染み込んでいくようだった。
「だから、息抜きが必要だった。誰にも知られず、完璧な一条蓮ではない、ただの俺になれる場所が。それが……ラーメン屋だったんだ。初めて一人でラーメン屋に入った時の、あの背徳感と解放感は、今でも忘れられない」
そう言って、彼は少しだけ笑った。その笑顔は、どこか寂しそうで、でも、とても穏やかだった。
「ごめん。自分の話ばかりして」
「いえ……」
美咲は、ゆっくりと首を振った。
「話してくださって、嬉しいです。一条さんのこと、もっと知りたいって思ってたから」
その言葉は、素直な本心だった。すると、彼は「君のことも、知りたい」と、真っ直ぐに美咲の目を見て言った。その真摯な眼差しに、美咲は心を決め、自分のことを話し始めた。
「私は……特別な才能も、夢もなくて。ただ、真面目にやっていれば、いつか報われるのかなって、漠然と思ってました。でも、現実はそうじゃなくて……。気づいたら、もう二十八歳で。周りの友達は、結婚したり、仕事でキャリアを積んだりしてるのに、私は派遣社員のままで、将来が、すごく不安になる時があります」
正社員になりたい。けれど、自分にその価値があるのか自信が持てない。派遣契約が更新されるたびに、安堵すると同時に、いつか終わりが来る恐怖に怯えていること。誰にも言えなかった、心の奥底にある不安や焦りを、美咲は初めて人に打ち明けた。
一条は、黙って最後まで聞いてくれた。そして、美咲が話し終えると、そっと手を伸ばし、テーブルの上にある美咲の手に、自分の手を重ねた。
「……君は、地味なんかじゃない」
彼の大きな手が、温かい。
「君の仕事は、いつも丁寧で正確だ。誰かがやらなければいけない、目立たないけれど重要な仕事を、君は文句も言わずに完璧にこなしている。俺は、ずっと見ていた」
見ていて、くれたんだ。その言葉だけで、今まで抱えていた不安が、すっと溶けていくような気がした。瞳に、じわりと涙が滲む。
「それに……君は、すごく美味しそうにラーメンを食べる」
一条が、いたずらっぽく笑う。その笑顔につられて、美咲も泣きながら笑ってしまった。
お互いの弱さに触れた夜。鎧を脱ぎ捨て、素顔で向き合ったことで、二人の心はぐっと近づいた。もう、ただの上司と部下でも、秘密を共有するだけの契約関係でもない。もっと深く、もっと特別な何かが、二人の間に確かに生まれ始めていた。
帰り道、駅までの道を並んで歩く。重ねられたままの手は、どちらからともなく、指を絡めて恋人繋ぎに変わっていた。言葉はなくても、その温もりだけで、お互いの気持ちが伝わってくるようだった。この時間が、ずっと続けばいいのに。美咲は、強くそう願った。




