第6章:雨の夜の、小さなアクシデント
懇親会の夜から、美咲の心にはどんよりとした雲が居座っていた。一条部長の顔をまともに見ることができない。彼がフロアにいるだけで、心臓がぎゅっと縮こまるような気がした。
金曜日の夕方、案の定、一条から『今夜、七時に』という短いメッセージが届いた。一瞬、断ってしまおうかという考えが頭をよぎる。しかし、これは契約だ。私情を挟むべきではない。美咲は『承知しました』とだけ返し、重い足取りで会社を出た。
その日の空は、まるで美咲の心を映したかのように、朝から厚い雲に覆われていた。そして、約束の時間が近づくにつれて、ついにぽつりぽつりと冷たい雨粒が落ちてきた。待ち合わせ場所の駅に着く頃には、雨は本格的な土砂降りになっていた。
傘を差し、指定された場所で待っていると、見慣れた変装姿の一条が小走りでやってきた。彼のコートの肩は、すでに雨でしっとりと濡れている。
「すまない、待たせたな。すごい雨だ」
「いえ、私も今来たところです」
ぎこちない会話を交わし、相合い傘のような形で一つの傘に身を寄せながら、目的の店へと向かう。いつもより近い彼の距離に、心臓がうるさく鳴った。普段は気にならない、彼の纏うオーデコロンの香りが、雨の匂いに混じってやけに鮮明に感じられる。
その日の店は、クリーミーな鶏白湯ラーメンが人気だと雑誌にも載っている、お洒落な雰囲気の店だった。温かい店内で、熱々のラーメンをすする。濃厚でまろやかなスープが、冷えた体を芯から温めてくれた。けれど、美咲の心の中のモヤモヤは、晴れることがなかった。目の前のラーメンに集中しようとしても、懇親会での一条とレイカの姿がちらついてしまう。
「……美味しくないか?」
美咲の箸が進んでいないことに気づいたのか、一条が心配そうに顔を覗き込んできた。
「い、いえ! すごく美味しいです!」
慌ててそう答え、がむしゃらに麺をすする。そんな美咲の様子を、一条はどこか訝しげに見つめていた。
重苦しい雰囲気のまま店を出ると、外の雨はさらに勢いを増していた。傘を叩く雨音が、二人の間の沈黙を一層際立たせる。駅までの道を歩き出した、その時だった。
水たまりを避けようとした美咲は、タイルの上で思いきり足を滑らせてしまった。
「きゃっ!」
体勢を立て直す間もなく、体が大きく傾く。地面に叩きつけられる、と目をぎゅっと閉じた瞬間、力強い腕がぐいっと彼女の体を支えた。
「危ない!」
一条だった。彼は自分の傘を放り出し、濡れるのも構わずに、倒れそうになった美咲をその胸で受け止めてくれたのだ。
「だ、大丈夫か? 怪我は?」
「は、はい……大丈夫です。ありがとうございます……」
彼の腕の中で、美咲は呆然と答えた。耳元で聞こえる彼の声。土砂降りの雨の音。そして、彼のワイシャツ越しに伝わってくる、確かな体温。その瞬間、いつも彼がつけているクールなオーデコロンの香りではなく、もっとプライベートな、洗濯したてのシャツから香るような、優しい柔軟剤の匂いがふわりと鼻をかすめた。
その生活感のある香りに、美咲の心臓はこれまでにないくらい大きく、激しく音を立てた。この人は、完璧な部長である前に、一人の男性なんだ。そう実感した途端、顔にぶわっと熱が集まる。
「……立てるか?」
「あ、はい……」
慌てて彼から身を離す。彼のワイシャツは雨に濡れて、逞しい胸板の形がくっきりと浮かび上がっていた。それを見てしまい、美咲はさらに顔を赤くして俯いた。
「この雨だ。駅まで歩くのは無理だな。車で送る」
「え、でも……」
「いいから。風邪をひく」
有無を言わさぬ口調でそう言うと、彼は美咲の手を掴み、近くのコインパーキングへと歩き出した。彼の大きな手に引かれるまま、美咲はなすすべもなくついていく。
やがて、一台の黒い高級セダンの前にたどり着いた。助手席のドアを開けてくれた彼に促され、美咲はおずおずと車内に乗り込む。一条も運転席に乗り込み、エンジンをかけた。
雨音だけが響く車内で、沈黙が続く。しかし、その沈黙は不思議と気まずいものではなかった。むしろ、車の外の激しい雨音が、この狭い空間を安全なシェルターのように感じさせてくれた。ワイパーが規則正しく動くのを、美咲はぼんやりと眺めていた。
「……すいません、服、濡らしちゃって」
「気にするな。それより、本当に怪我はないか?」
「はい。部長が助けてくれたので」
「一条だ」
「……一条さんが、助けてくれたので」
そう言い直すと、彼は「そうか」とだけ短く答えた。その横顔は、いつもより少しだけ優しく見えた。
やがて車は美咲のアパートの前に着いた。
「ありがとうございました。送っていただいて、すみません」
「いや。……じゃあ、また」
車を降り、部屋の鍵を開ける。ドアを閉める直前に振り返ると、彼の車はまだそこに停まっていた。美咲が部屋に入るのを見届けてから、静かに走り去っていく。
一人になった部屋で、美咲は自分の胸にそっと手を当てた。まだ、心臓がドキドキと音を立てている。懇親会の夜に感じた嫉妬や不安。そんなものは、今夜の出来事でどこかへ吹き飛んでしまったようだった。
彼の腕の強さ。心配そうな声。そして、あの優しい柔軟剤の匂い。
雨の夜の小さなアクシデントは、美咲の心に、消えることのない確かな温もりを残していった。




