第4章:部長の知らない顔、私の知らない気持ち
一条との奇妙な契約――週に一度のラーメン巡りは、それから毎週のように続いた。それは、美咲にとって非日常への扉を開ける、秘密の儀式のようになっていった。
三回目のラーメン巡りは、一条が「今日は刺激が欲しくないか?」と不敵な笑みを浮かべて連れて行ってくれた、激辛味噌ラーメンで有名な店だった。真っ赤なスープに浮かぶ唐辛子の山を見て、美咲は一瞬ひるんだが、「辛いのが苦手なら無理するな」と言う彼の言葉に、妙な対抗心が湧いてきた。
「だ、大丈夫です! 辛いのは、嫌いじゃありません!」
見栄を張ってそう宣言したものの、一口スープを飲んだ瞬間、口の中に爆弾が投下されたかのような衝撃が走った。辛い、というより痛い。喉が焼けるようで、全身の毛穴から汗が噴き出すのが分かった。
「……っ、か、から……!」
「はは、無理するからだ」
隣で涼しい顔をしてラーメンをすすっていた一条が、楽しそうに笑いながら、さっとお冷のグラスを差し出してくれた。その何気ない優しさに、心臓がトクンと跳ねる。ヒーヒー言いながらも、なんとか一杯を食べ終えた美咲の顔は、汗と涙でぐちゃぐちゃだった。店を出た後、「よく頑張ったな」と子供にするように頭をポンと撫でられ、美咲は顔から火が出そうなくらい真っ赤になった。心臓のドキドキが、唐辛子のせいなのか、彼のせいなのか、もう分からなかった。
また別の日には、濃厚な魚介豚骨スープが自慢のつけ麺屋に連れていかれた。ここでは、一条の意外な一面を発見することになった。
「あつっ……!」
熱々のつけ汁に麺をくぐらせた一条が、小さな悲鳴を上げたのだ。見れば、彼は猫のように舌を気にしながら、ふーふーと必死に麺を冷ましている。社内で見せる、どんなトラブルにも動じない冷静沈着な姿からは、到底想像もつかない光景だった。
「一条さん、もしかして猫舌なんですか?」
くすくすと笑いながら尋ねると、彼は少しばつが悪そうに「……うるさい」と呟いて、顔を背けてしまった。その耳がほんのり赤く染まっているのを見て、美咲はたまらなく愛おしい気持ちになった。完璧な彼にも、こんな可愛い弱点があったなんて。その発見は、まるで宝物を見つけたような喜びを美咲に与えた。
ラーメン巡りは、もはやただの「契約」ではなくなっていた。それは、一条蓮という人間の、知られざるプロフィールを一つずつ集めていく、宝探しのような時間だった。
厳格な家庭で育った彼は、幼い頃から常に「完璧」であることを求められてきたらしい。B級グルメなんて、もってのほか。だからこそ、誰にも知られず、こっそりとラーメンを食べる時間が、彼にとって唯一の解放であり、自分らしくいられる瞬間なのだと、ある日ぽつりと教えてくれた。
彼のそんな話を聞くたびに、美咲は一条との距離が少しずつ縮まっていくのを感じた。会社では、相変わらず彼は厳しく、恐れられる営業企画部長のまま。美咲もまた、地味で目立たない派遣社員の一人だ。けれど、金曜の夜だけは、二人の立場は対等になる。ただのラーメン好きの男の子と女の子として、同じカウンターに座り、同じ一杯のラーメンをすする。その時間が、美咲の中でどんどん特別なものに変わっていった。
会社の給湯室で、同僚の女の子たちが一条部長の噂話をしているのを耳にした。
「一条部長って、本当に素敵よね。完璧すぎて、どんな人と付き合うのか想像もつかないけど」
「きっと、モデルさんみたいな綺麗な人なんだろうなあ」
そんな会話を聞きながら、美咲は心の中でこっそりと思う。
(違うよ。一条さんは、激辛ラーメンにむせたり、猫舌で麺をふーふーしたりする、普通の人なんだよ)
その秘密を知っているのは、世界で自分だけ。その事実が、優越感と、ほんの少しの罪悪感を伴って、美咲の胸を甘く満たした。
ある日の帰り道。いつものように二人でラーメンを食べ終え、駅まで並んで歩いていた。
「なあ、佐藤」
「はい?」
不意に、彼が名字で呼んだ。会社の外では「一条さん」「美咲さん」と呼び合うのが暗黙のルールになっていたから、少しだけ驚く。
「……いや、なんでもない」
彼はそう言って、また前を向いてしまった。けれど、その一瞬、何かを言いたそうに揺れた彼の瞳が、美咲の心に焼き付いて離れなかった。
このラーメン巡りは、いつまで続くのだろう。最初は、口止めのための奇妙な義務だった。でも、今は違う。金曜日が待ち遠しくて、彼と会えると思うだけで、一週間の仕事も頑張れる。彼が時折見せる笑顔や、不器用な優しさを思い出すたびに、胸の奥がきゅうっと締め付けられるように痛む。
これは、ただの契約関係? それとも……。
芽生え始めたこの気持ちに、名前をつけてしまうのが怖かった。一条部長は、雲の上の人。派遣社員の自分とは、住む世界が違う。ラーメンを一緒に食べるだけの、期間限定の特別な関係。それ以上を望んではいけない。
そう自分に強く言い聞かせれば言い聞かせるほど、美咲の中で「一条蓮」という存在は、どんどん大きくなっていくのだった。




