第3章:初めての秘密のラーメン巡り
奇妙な契約を結んでから数日後の水曜日。美咲のスマートフォンのメッセージアプリが、軽快な通知音を立てた。送り主は『Ichijo Ren』。数日前に、業務連絡用だと半ば強制的に交換させられた一条部長の連絡先だった。
『金曜の夜、予定は空いているか』
たったそれだけの、ビジネスメールのように簡潔な文章。しかし、美咲の心臓はどきりと音を立てた。来た。ついに、契約履行の時が。
『はい、空いております』
震える指で返信すると、すぐに既読がつき、次のメッセージが送られてきた。
『七時に、神保町の駅前で』
場所と時間だけが記された、あまりにも素っ気ない連絡。しかし、これはデートではないのだから、当然かもしれない。これは口止め料のための、奇妙な義務なのだ。そう自分に言い聞かせ、美咲は金曜の夜を迎えた。
仕事を終え、急いで会社のトイレでメイクを直し、髪を整える。普段なら残業後のご褒美ラーメンに向かう格好のままなのに、相手が一条部長だと思うと、どうしても気合が入ってしまう。何を着ていくか散々迷った末に選んだ、少しだけ綺麗なシルエットのワンピース。こんな自分がおかしいと、頭では分かっているのに。
約束の七時ちょうどに神保町の駅前に着くと、人混みの中に、見覚えのある長身を見つけた。先日と同じ、ニット帽に黒縁メガネの変装姿。しかし、今日は上品なグレーのチェスターコートを羽織っており、そのラフな格好でさえ、彼のスタイルの良さを際立たせていた。
「部長……」
「一条でいい。会社の外だ」
相変わらずクールな口調でそう言うと、彼は「こっちだ」と美咲に背を向け、歩き出した。美咲は慌ててその後を追う。古本屋が立ち並ぶ、趣のある街並み。一条部長――いや、一条さんは、一体どこに連れて行ってくれるのだろう。こってり豚骨の「がむしゃら」が好きな彼だから、きっと同じようなガツンとくるタイプの店だろうか。
そんな美咲の予想を裏切り、彼が足を止めたのは、大通りから一本入った静かな路地に佇む、古風な店構えの前だった。年季の入った暖簾には『中華そば すずらん』と書かれている。ガラス戸から漏れるオレンジ色の温かい光が、店の歴史を物語っているようだった。
「ここは……?」
「俺が社会人になって初めて、上司に連れてきてもらった店だ。ここの醤油ラーメンは絶品だぞ」
そう言って微笑んだ一条の横顔は、会社の厳しい部長ではなく、どこにでもいるラーメン好きの青年のように見えた。店の中に入ると、「いらっしゃい!」という威勢のいい大将の声に迎えられる。カウンターだけの小さな店だ。魚介と鶏ガラの優しい香りがふわりと鼻をくすぐり、美咲の緊張を少しだけ解きほぐしてくれた。
カウンター席に並んで座る。一条は慣れた様子で「中華そば二つ」と注文した。厨房では、白髪の店主が小気味よい動きで麺を湯切りしている。その光景を、一条はどこか懐かしそうに、そして愛おしそうに見つめていた。
「最初に言っておくが」と、彼が口を開いた。「俺はラーメンを食べる時は、会話は最小限にする主義だ。麺が伸びるのが許せない」
「は、はい。承知しました」
「それと、スープから飲むのが礼儀だ」
「はい……」
「レンゲの上で小さなラーメンを作る『小宇宙』も邪道だとは思わないが、まずはスープそのものの味を堪能してほしい」
次々と繰り出される謎のラーメン哲学に、美咲は相槌を打つのが精一杯だった。会社で見せる完璧主義は、ラーメンの世界でも健在らしい。その真剣な語り口がおかしくて、思わず笑いがこぼれそうになるのを必死でこらえる。
やがて、二つの丼が目の前に置かれた。透き通った黄金色のスープに、丁寧に折りたたまれた細麺。チャーシュー、メンマ、ナルト、そして刻みネギ。シンプルを極めた、美しい一杯。
「さあ、冷めないうちに」
一条の言葉を合図に、二人は同時にレンゲを手に取った。美咲は彼の教え通り、まずはスープを一口。
「……美味しい」
思わず、声が漏れた。鶏ガラの滋味深い旨味と、醤油の芳醇な香りが口の中に広がる。派手さはないけれど、毎日でも食べたくなるような、優しくて懐かしい味。隣を見ると、一条は目を閉じて、じっくりとスープの余韻を味わっている。その表情は、恍惚としていて、本当に幸せそうだった。
次に、麺をすする。細いストレート麺が、優しいスープを程よく持ち上げてくる。するするとなめらかに喉を通り過ぎていく食感が心地よい。夢中で麺をすすり、時々スープを飲み、チャーシューをかじる。無言だった。けれど、その沈黙は全く気まずくなかった。隣で同じように、一心不乱にラーメンと向き合う一条の存在が、不思議な一体感を生み出していた。
あっという間に丼は空になり、美咲は満足のため息をついた。
「ごちそうさまでした。すごく、美味しかったです」
「そうだろう?」
一条は、まるで自分のことのように嬉しそうに頷いた。その笑顔は、会社では決して見ることのできない、無防備で柔らかなものだった。
店の外へ出ると、夜の空気が少しだけひんやりと感じる。
「あの、一条さん。どうして私を……ラーメン巡りに?」
ずっと疑問に思っていたことを、思い切って尋ねてみた。口止めのためだけなら、他にも方法はあったはずだ。彼は少しだけ間を置いて、夜空を見上げながら答えた。
「……一人で食べるラーメンもいいが、誰かと『美味しい』を共有するのも、悪くないと思っただけだ」
ぶっきらぼうな言い方。でも、その言葉は真っ直ぐに美咲の心に届いた。会社では決して交わることのない、完璧な上司と地味な派遣社員。そんな二人が、今、ラーメンという共通の秘密で繋がっている。
初めての秘密のラーメン巡りは、あっさり醤油ラーメンの優しい味と共に、美咲の心に温かい記憶として刻まれた。これは契約関係。そう分かっているはずなのに、次の金曜日が少しだけ楽しみになっている自分がいることに、美咲はまだ気づいていなかった。




