エピローグ:おかわり、もう一杯!
あれから、一年。
金曜の夜、活気に満ちた営業企画部フロアで、美咲はきびきびと後輩に指示を飛ばしていた。
「このデータ、月曜の朝までにまとめておいてくれる? よろしくね」
「はい、佐藤先輩!」
後輩から「先輩」と呼ばれることにも、すっかり慣れた。一年前、美咲は一条の推薦もあり、見事に正社員登用試験に合格した。今では、営業企画部に欠かせない存在として、生き生きと働いている。もう、あの頃のように、将来に怯える地味な派遣社員の面影はどこにもなかった。
デスクの上には、一条から「お疲れ様」という付箋が貼られた、栄養ドリンクが置かれている。社内では、二人の関係は「良き上司と、信頼できる部下」として通っていた。誰もが認める理想的な関係。しかし、誰も知らない。金曜の夜、終業のチャイムが鳴ると、二人の秘密の時間が始まることを。
会社を出て、少し離れた場所で待ち合わせをする。
「お疲れ、美咲」
「お疲れ様です、蓮さん」
スーツ姿の彼が、優しく微笑む。ごく自然に手を繋ぎ、歩き出す。この一年で、二人は数えきれないほどのラーメン屋を巡った。北海道の味噌ラーメン、博多の豚骨ラーメン、喜多方の醤油ラーメン。時には、旅行を兼ねて遠くまで足を延ばした。
今夜、二人が向かったのは、こじんまりとした塩ラーメンの専門店だった。
「今日は、結婚のご挨拶、緊張したな」
カウンターに並んで座りながら、蓮がふっと息をついた。そう、今日の昼間、二人は美咲の実家を訪れ、両親に結婚の挨拶を済ませてきたのだ。最初は、完璧すぎる経歴と容姿を持つ蓮を前に、カチコチに緊張していた美咲の両親も、彼の誠実な人柄と、何より娘を見る優しい眼差しに、最後は涙を浮かべて喜んでくれた。
「うちのお父さん、蓮さんのこと、すっかり気に入っちゃって」
「はは、光栄だな」
運ばれてきた、透き通る黄金色のスープの塩ラーメン。シンプルながらも、素材の旨味が凝縮された、極上の一杯。
「美味しい……」
スープを一口飲んで、美咲が幸せなため息をつくと、蓮がそっと彼女の左手を取った。その薬指には、彼の選んでくれた、シンプルなデザインの指輪がキラリと光っている。
「美咲」
「はい?」
「これからも、世界中のラーメンを、一緒に食べに行こう。嬉しい時も、悲しい時も、腹が減った時も、いつも隣で、一緒にラーメンをすすってほしい」
そのプロポーズともとれる言葉に、美咲は満面の笑みで頷いた。
「はい、喜んで! おかわり、もう一杯!」
蓮も、つられるようにして笑う。
幸せな未来へと続く道は、きっと、この塩ラーメンのスープのように、澄み切っていて、温かくて、そして、どこまでも深い味わいがするのだろう。
二人は、夜の街に輝くラーメン屋の赤い提灯の灯りに向かって、これからも続く、美味しくて幸せな未来へと、しっかりと手をつないで歩き出すのだった。




