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地味な派遣の私とエリート部長の秘密の関係。それは金曜夜にだけ現れる「ラーメン同盟」のはずが、いつの間にか溺愛されてます。  作者: 水凪しおん


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第2章:秘密の共有と、奇妙な契約

 週末の間、美咲の頭の中は「ラーメン部長」のことでいっぱいだった。土曜日に見ていたテレビドラマの内容は少しも頭に入ってこないし、日曜日に買い物に出かけても、ついラーメン屋の看板に目がいってしまう。そのたびに、パーカーにニット帽姿の一条部長が脳裏をよぎり、一人で赤面する始末だった。


 そして、憂鬱な月曜日がやってきた。


 出社して自分のデスクに着くと、美咲はできるだけ気配を消すように、背中を丸めてパソコンの電源を入れた。今日の目標は、とにかく一条部長と目を合わせないこと。彼の視界に絶対入らないこと。幸い、美咲の席は部長席から一番遠い、フロアの隅っこだ。これならきっと、一日くらいやり過ごせるはず。


 しかし、そんな淡い期待は、朝のミーティングであっさりと打ち砕かれた。


「――以上だ。佐藤さん」


 凛とした低い声に、びくりと肩が跳ねる。呼ばれた。心臓が喉から飛び出しそうになるのを、必死で押さえる。


「は、はい!」


 裏返った声で返事をすると、フロア中の視線が一斉に自分に集まるのが分かった。一条部長は、その美しい顔に何の感情も浮かべず、ただまっすぐに美咲を見つめている。その瞳は、金曜の夜に見たキラキラしたものとはまるで違う、すべてを見透かすような鋭い光を放っていた。


「先週末までに頼んでいたデータ分析、どうなっている?」

「あ、はい! すでに共有フォルダにアップしております!」


 早口でそう答えるのが精一杯だった。「そうか」と短く返事をした部長は、すぐに別の社員に指示を飛ばし始めた。美咲への関心は、もうそこにはない。ほっと胸を撫でおろしながらも、背中には嫌な汗がじっとりと滲んでいた。たった数十秒のやり取りで、全身のエネルギーを使い果たしてしまった気分だ。


 その後も、美咲は一日中、息を潜めるようにして過ごした。部長がフロアを歩けば、書類の山に顔を隠す。給湯室で彼と鉢合わせそうになれば、トイレに駆け込む。その不審な行動は、むしろ悪目立ちしているのではないかと不安になるほどだった。


 あっという間に定時を過ぎ、オフィスに残る人もまばらになってきた。今日一日の異常な緊張で、美咲は心身ともに疲れ果てていた。早く帰ろう。そう思って帰り支度をしていた、その時だった。


「佐藤さん」


 背後からかけられた声に、美咲の体はカチンと凍りついた。恐る恐る振り返ると、腕を組んだ一条部長が、無表情でこちらを見下ろしている。


「少し、いいか」


 断れるはずもなかった。部長室に案内され、促されるままにソファに腰掛ける。一条部長は美咲の正面に座ると、テーブルの上で優雅に指を組んだ。沈黙が重くのしかかる。何か、私が仕事でミスをしたのだろうか。それとも、やはり金曜の夜のこと……?


「……最近、仕事で何か悩みでもあるのか」


 予想外の言葉に、美咲は顔を上げた。一条部長は、相変わらず表情は硬いものの、その声にはわずかに心配の色が滲んでいるように聞こえた。


「いえ、特にこれといって……」

「そうか。今日の君は、少し様子がおかしかったように見えたが」


 核心を突かれ、心臓が大きく跳ねる。しどろもどろになる美咲を、一条部長の鋭い目がじっと観察している。まるで、獲物を追い詰める肉食獣のようだ。


「気のせいなら、いいんだが」


 そう言って、彼は一度言葉を切った。そして、ほんの少しだけ身を乗り出し、声を潜めてこう続けた。


「――先週の金曜、麺屋がむしゃらにいなかったか?」


 時が、止まった。


 血の気が引いていくのが自分でも分かった。頭の中は真っ白になり、指先は氷のように冷たくなっていく。「いえ、そんなところには」「人違いじゃないですか」。そう言わなければならないのに、声が出ない。美咲の沈黙が、何より雄弁な肯定の証だった。


 はぁ、と一条部長が小さなため息をついた。その表情は、怒っているというよりは、むしろ困惑しているように見えた。観念した美咲は、蚊の鳴くような声で「……はい。見ました」と白状した。


「すべて、見ました。パーカーに、ニット帽に、ダテメガネの部長を……」


 もう終わりだ。明日から私はここにはいられない。絶望に打ちひしがれ、ぎゅっと目を閉じた美咲に、一条部長は意外な言葉をかけた。


「そうか。……見てしまったものは、仕方ない」


 え? と顔を上げると、彼は少し気まずそうに視線を逸らしていた。その耳が、心なしか赤いように見えるのは、気のせいだろうか。


「頼みがある。俺の趣味のことは、他言無用にしてほしい」

「も、もちろんです! 誰にも言いません! 墓場まで持っていきます!」


 必死に頭を振る美咲に、一条は「ありがとう」と短く言った。そして、少しの間考え込むように黙った後、とんでもない提案を持ちかけたのだ。


「ただでとは言わない。口止め料を払おう」

「く、口止め料!?」

「ああ。その代わりと言っては何だが……週に一度、俺のラーメン巡りに付き合え」


「…………はい?」


 理解が追い付かない。ラーメン巡り? 口止め料として? 美咲が呆然としていると、一条は少し早口に続けた。


「一人で食べるのも、少し飽きてきていたところだ。君もラーメンは嫌いじゃないだろう? がむしゃらに並んでいたくらいだからな。悪い話ではないはずだ」


 確かに、ラーメンは大好きだ。むしろ三度の飯より好きかもしれない。でも、相手はあの一条部長だ。会社の外で、二人きりでラーメンを食べるなんて。想像しただけで、味がしなくなりそうだ。


 しかし、美咲に選択肢はなかった。彼の秘密を握ってしまった以上、ここで断ればどうなるか分からない。それに、彼の表情は真剣そのものだった。


「……分かりました。お付き合い、します」


 美咲がかろうじてそう答えると、一条部長の表情が、ほんのわずかに和らいだように見えた。


「決まりだな。これは契約だ。俺の秘密を守り、君は俺のラーメン巡りに付き合う。いいな?」


 こうして、地味な派遣社員の私と、完璧なエリート部長との間に、ラーメンで繋がる奇妙な秘密の契約が結ばれた。これからどうなってしまうのか、美咲には全く予想がつかなかった。ただ、これから始まる非日常的な日々に、ほんの少しだけ胸が騒いだのも、また事実だった。

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