番外編3:西園寺レイカの後悔と、新たな一歩
完璧だったはずの私の人生は、あの日を境に、崩れ落ちた。一条部長に、氷のような瞳で「恥を知れ」と言われた瞬間。そして、彼の全社メールによって、私がただの嫉妬深い、卑劣な女であることが全社に晒された瞬間。私のプライドは、修復不可能なほどズタズタになった。
今まで私をちやほやしていた同僚たちは、手のひらを返したように距離を置き、陰で私のことを嘲笑っている。自業自得。その言葉が、何度も頭の中でこだまする。
どうして、あんなことをしてしまったのだろう。
ただ、一条部長が好きだった。完璧な彼にふさわしいのは、完璧な自分だと思っていた。それなのに、彼の隣にいたのは、佐藤美咲――あの、地味で、何の取り柄もないと思っていた派遣社員だったから。信じられなかった。認められなかった。だから、彼女を貶めて、引きずり下ろそうとした。その結果が、これだ。
会社に居づらくなり、私は逃げるように地方への長期出張を願い出た。知らない街で、一人、ビジネスホテルと出張先を往復するだけの毎日。そんなある日の夜、夕食を食べる気にもなれず、ホテルの周りをあてもなく歩いていた時、ふと、一軒の古びたラーメン屋が目に入った。
『中華そば』と書かれた暖簾。吸い込まれるように、店の中に入ってしまった。カウンターだけの小さな店。こんな店、普段の私なら絶対に入らない。
席に着いて、ぼんやりとメニューを眺めていると、店の隅の席に座っていた女性客と、ふと目が合った。
「……西園寺さん?」
そこにいたのは、佐藤美咲だった。彼女もまた、出張でこの街に来ていたらしい。最悪の再会だった。気まずさで、すぐにでも店を出たかった。しかし、私の足は、なぜかその場に縫い付けられたように動かなかった。
「……奇遇ね」
やっとの思いで、それだけを絞り出す。彼女は、驚いた顔をしていたが、やがて、少しだけ困ったように笑った。
「お隣、どうぞ」
なぜ、彼女は私を拒絶しないのだろう。あんなにひどいことをしたのに。私は、おずおずと、彼女の隣の席に座った。
注文したラーメンが運ばれてきて、二人の間に気まずい沈黙が流れる。私は、どうして彼女がここにいるのか、一条部長とはどうなったのか、聞きたいことが山ほどあったが、何も聞けなかった。
「……美味しいですね、ここのラーメン」
先に口を開いたのは、彼女の方だった。
「あっさりしてるけど、奥が深くて。なんだか、ホッとする味です」
そう言って、彼女は本当に美味しそうにラーメンをすする。その姿を見ていたら、私の中の何かが、ふっと緩んだ気がした。
「……ごめんなさい」
気づいたら、その言葉が口から出ていた。
「私、あなたに、ひどいことをしたわ」
彼女は、箸を置くと、静かに私の方を見た。
「あなたを妬んでいたの。一条部長の隣にいるのが、許せなかった。自分の思い通りにならないことが、悔しかった。本当に、子供じみた、馬鹿なことをしたわ」
涙が、こぼれそうになるのを必死でこらえる。すると、彼女は静かに言った。
「西園寺さんも、辛かったんですね」
その言葉は、予想外のものだった。同情でも、憐れみでもない。ただ、私の心を理解しようとしてくれる、優しい言葉だった。
「私、知ってます。西園寺さんが、誰よりも努力していること。あなたの企画書は、本当にすごいですから。いつも、完璧で」
「……やめて」
彼女に褒められる資格なんて、私にはない。
その夜、私たちは、ラーメンを前にして、初めてお互いを一人の女性として向き合った。完全な和解ではなかったかもしれない。でも、私は、彼女の強さと優しさに触れて、ようやく自分の過ちを心から認めることができた。
出張から戻った私は、会社に辞表を提出した。そして、自分の力で、新しい道を歩き始めることにした。
もう、誰かと比べて、自分を偽るのはやめよう。ラーメンの味なんて、今まで気にしたこともなかったけれど。あの夜、彼女と食べた中華そばの、あの優しい味だけは、きっと一生忘れないだろう。それは、私の後悔と、新たな一歩の味がした。




