第16章:二人で食べる、未来の味
一条の真っ直ぐな告白を受け入れ、二人の想いがようやく通じ合ったあの日の夜。屋上から降りた後、一条は「このまま、どこかへ行こう」と、美咲の手を固く握った。その手は、力強く、そしてとても温かかった。
「どこへ行くんですか?」
「決まってるだろう?」
そう言って悪戯っぽく笑った彼が、美咲を連れて向かった先。それは、二人の物語が始まった、あの場所だった。
路地裏に、ぼんやりと温かい光を灯す『麺屋 がむしゃら』の看板。
「ここ……」
「俺たちの、始まりの場所だからな」
一条は、いつもの変装セットは身に着けていなかった。スーツ姿のままの彼と、オフィスカジュアルのままの私。もう、何も隠す必要はない。二人は、少しだけ照れくさいような、でも、誇らしいような気持ちで、店の暖簾をくぐった。
「いらっしゃい!」
強面の店主が、いつもの威勢のいい声で迎えてくれる。そして、並んでカウンターに座った二人を見て、一瞬だけ驚いたように目を見開き、すぐにニヤリと口角を上げた。
「こってり豚骨、二つで」
一条が注文すると、店主は「あいよっ!」と快活に返事をした。
ラーメンを待つ間、二人はどちらからともなく、テーブルの下でそっと手をつないだ。指を絡めると、彼が優しい力で握り返してくれる。ただそれだけで、心が幸せで満たされていくのが分かった。
「見合いの話、どうなったんですか?」
ずっと気になっていたことを、思い切って尋ねてみた。すると、彼はきっぱりと答えた。
「とっくに断った。俺には、将来を考えたいと思っている人がいる、と伝えてな」
その言葉に、美咲の顔がカッと熱くなる。
「……それって」
「ああ、君のことだ」
真っ直ぐに見つめられて、心臓が大きく跳ねた。もう、この人には敵わない。
やがて、二つの丼が目の前に置かれた。こってりとした豚骨の、食欲をそそる香り。初めて彼と出会った日に、食べ損ねてしまった因縁のラーメン。
「いただきます」
声を揃えて言い、まずはスープを一口。濃厚でクリーミーな豚骨の旨味が、口いっぱいに広がる。ああ、美味しい。心の底から、そう思えた。
夢中で麺をすする。隣を見ると、一条もまた、本当に幸せそうな顔でラーメンと向き合っていた。でも、前と違うのは、時々、彼が顔を上げて、優しく私に微笑みかけてくれることだ。その笑顔を見るたびに、スープの味が、さらに美味しくなっていくような気がした。
今まで食べた、どんなご馳走よりも、どんな高級な料理よりも、今、この瞬間に、彼と二人で食べるこの一杯のラーメンが、世界で一番美味しい。
二人で夢中になって食べ、あっという間に丼は空になった。
「ごちそうさまでした!」
声を揃えて言うと、会計に向かった一条に、店主がこっそりと耳打ちしているのが見えた。
「兄ちゃん、良かったな。そのお嬢さん、大事にしろよ」
「……ああ。ありがとう、親父さん」
照れくさそうに礼を言う一条の横顔を見て、美咲は幸せな気持ちでいっぱいになった。
店の外へ出て、手をつなぎながら、ゆっくりと駅までの道を歩く。これからは、こうして堂々と、二人で並んで歩いていける。そのことが、夢のように嬉しかった。
「美咲」
「はい」
「これからも、ずっと一緒にいてほしい」
「はい。喜んで」
二人で食べる、未来の味。それはきっと、このこってり豚骨ラーメンのように、濃厚で、複雑で、でも、体の芯から温まるような、幸せな味がするのだろう。
美咲は、繋がれた手に少しだけ力を込めた。夜空には、綺麗な月が輝いていた。




