第15章:部長の告白
週明けの月曜日。社内は、依然として美咲に対する冷ややかな空気に包まれていた。しかし、その空気を切り裂くように、一つの出来事が起こった。
営業企画部長・一条蓮が、西園寺レイカを部長室に呼び出したのだ。
「一体、どういうおつもりですの、部長」
レイカは、自分が優位に立っていると信じて疑わず、少しも悪びれない様子でソファに座った。そんな彼女に対し、一条は氷のように冷たい視線を向けた。
「君が流した噂の件だ。根も葉もないことで、私の大切な部下を傷つける行為は、断じて許すわけにはいかない」
その声には、一切の温度がなかった。「大切な部下」という言葉に、レイカの表情が微かにこわばる。
「事実ですわ。あんな派遣社員が、部長を誑かそうとしていたのは」
「事実ではない。第一、君は見ていないだろう。彼女がどれだけ努力して、あの企画を成功させたか。自分の嫉妬心から、人の功績を捻じ曲げ、無実の人間を貶める。それが、グランデ商事の社員としてあるべき姿か? 恥を知れ」
一条の毅然とした態度と、正論に、レイカは言葉を失った。彼女のプライドは、粉々に打ち砕かれた。一条は、最後にこう言い渡した。
「これ以上、彼女を傷つけるような言動があれば、俺は君を許さない。そのつもりでいろ」
部長室から出てきたレイカの顔は、真っ青だった。
そして、その日の午後。グランデ商事の全社員に向けて、一条蓮の名前で一通のメールが送信された。フロアのあちこちで、メールを開いた社員たちの、驚きの声が上がる。美咲も、恐る恐るそのメールを開いた。
件名は、『営業企画部長・一条蓮より、皆様へのお詫びとご報告』。
『この度、私の私的な問題で、社内の皆様をお騒がせし、また、営業企画部の佐藤美咲さんの名誉を著しく傷つけてしまったことを、深くお詫び申し上げます。
一部で噂になっている件ですが、発端はすべて私にあります。ラーメン巡りは、長年続けてきた私の個人的な趣味です。その趣味を、偶然、佐藤さんに知られてしまったことから、私の身勝手な頼みで、彼女には無理に付き合ってもらっていました。
先日、彼女が成功させた企画は、すべて彼女自身の努力と才能によるものです。そこに、私的な感情が介在した事実は一切ありません。
事実無根の噂で、一人の真面目な社員がこれ以上苦しむことがないよう、皆様のご理解とご配慮をお願いしたく、ご報告させていただきました。
この度の騒動の責任は、すべて私にあります。重ねて、深くお詫び申し上げます』
それは、あまりにも誠実で、潔い文章だった。自分の立場が危うくなるリスクを顧みず、ただ一人、美咲を守るためだけに書かれた文章。美咲は、パソコンの画面が滲んで見えなくなるくらい、涙を流した。彼は、こんな形で、自分の潔白を証明してくれたのだ。
メールの効果は絶大だった。社内の空気は一変し、今度はレイカの身勝手な行動を非難する声が上がり始めた。美咲に対する同情的な視線も増え、鈴木真由も「ごめんね、美咲さん! 私、信じてたのに!」と泣きながら謝りに来てくれた。
騒ぎが収まった日の、終業後。美咲が一人、帰り支度をしていると、一条が彼女のデスクにやってきた。
「……話がある」
美咲は、黙って彼についていった。向かった先は、会社の屋上だった。夕日が、東京のビル群をオレンジ色に染めている。
「……ごめんなさい。メール、見ました」
「君が、謝ることじゃない」
二人の間に、少しだけ気まずい沈黙が流れる。先にそれを破ったのは、一条だった。
「この前の金曜、君がいなくなってから、一人でラーメンを食べた」
美咲は、黙って彼の言葉の続きを待った。
「……全然、美味しくなかったんだ」
彼の声は、少しだけ震えているようだった。
「君がいないと、ラーメンが美味しくないんだ。その時、分かった。俺は、君のことが……好きだ」
真っ直ぐな、告白だった。美咲は、息をのんだ。
「口止めなんかじゃなかった。最初から、ただ、君と一緒にラーメンが食べたかったんだ。君が、美味しそうにラーメンを食べる顔を、もっと見ていたいと思ったんだ。君の隣にいると、完璧じゃない、ただの俺でいられる気がしたんだ」
彼は、一歩、美咲に近づいた。その瞳は、真剣な熱を帯びて、美咲を射抜いている。
「噂のせいで、君をたくさん傷つけた。本当にすまない。でも、もう君を失いたくない。俺と、これからも一緒にいてほしい。ラーメンだけじゃない。いろんな景色を、一緒に見ていってほしい」
一条の、魂からの叫びのような告白。美咲の心の中にあった、不安や迷いの壁が、ガラガラと音を立てて崩れていく。私も、同じ気持ちだ。私も、あなたが好きだ。
「……私も」
涙で声が詰まりながらも、美咲は懸命に言葉を紡いだ。
「私も、一条さんがいないと、ラーメンが美味しくありません。私も、あなたのことが、好きです」
その言葉を聞いた瞬間、一条の顔が、くしゃりと嬉しそうに歪んだ。彼は、そっと手を伸ばし、優しく美咲を抱きしめた。彼の胸の中で、美咲は声を上げて泣いた。嬉し涙だった。
夕日に照らされながら、二人は長い間、ただお互いの温もりを確かめ合っていた。




