第14章:決別と、本当の気持ち
噂は、日を追うごとに鎮まるどころか、面白おかしく語られ続け、美咲の心身を確実に蝕んでいった。もはや、オフィスにいるだけで呼吸が苦しくなる。夜も眠れず、食べ物も喉を通らない。鏡に映る自分の顔は、青白く痩せこけていた。
このままでは、壊れてしまう。
美咲は、ついに決断した。金曜日の夕方、彼女は一条に『今夜、いつもの場所でお話があります』と、久しぶりにメッセージを送った。彼との、この歪んでしまった関係に、きちんと終わりを告げなければならない。それが、彼のためであり、自分のためでもあった。
待ち合わせ場所に指定したのは、二人が初めて出会った、あの路地裏のラーメン屋「麺屋 がむしゃら」の前だった。先に着いて待っていると、少し遅れて一条がやってきた。彼の顔も、心なしか疲れているように見えた。
「……話とは、なんだ」
彼の声は硬く、その瞳には警戒の色が浮かんでいた。
「中に入りませんか」と美咲が言うと、彼は意外そうに眉を上げたが、黙って頷いた。店に入り、懐かしいカウンター席に並んで座る。こってりとした豚骨の匂いが、幸せだった頃の記憶を呼び覚まし、胸が痛んだ。
ラーメンを二つ注文し、それが運ばれてくるまでの間、重い沈黙が流れた。
先に口を開いたのは、美咲だった。
「一条さん。今日で、ラーメン巡りは終わりにしてください」
その言葉に、隣の一条の肩がぴくりと動くのが分かった。彼は、何も言わずにじっと美咲の顔を見つめている。
「今まで、ありがとうございました。私のわがままに、たくさん付き合わせてしまって……すみませんでした」
精一杯の笑顔を作って、そう告げる。けれど、その声は震えていた。
「口止め料は、もう十分いただきました。これ以上、一条さんにご迷惑をおかけするわけにはいきません」
「……迷惑だなんて、思ったことはない」
「いいえ、迷惑です。会社でのあなたの立場を考えれば、分かります。だから、もう、これで……」
ちょうどその時、二人の前にラーメンが置かれた。湯気の向こうで、一条の顔が苦しそうに歪んでいるように見えた。
「……それは、本心か?」
「はい」
嘘だった。本当は、終わりになんてしたくない。これからも、彼と一緒にラーメンが食べたかった。でも、そうすることで、彼を傷つけ、自分も傷つく。ならば、いっそ、この手で関係を断ち切ってしまった方がいい。
美咲は、震える手で箸を取り、無理やり麺を口に運んだ。大好きだったはずの、がむしゃらのラーメン。でも、今は何の味もしなかった。ただ、しょっぱいだけだった。涙が、スープに落ちないように、必死で上を向く。
一条は、ラーメンに一切手を付けようとしなかった。ただ、空になった美咲の丼を、悲しそうな目で見つめているだけだった。
「……ごちそうさまでした。私、先に戻ります」
これ以上、彼の顔を見ていたら、決心が鈍ってしまう。美咲は席を立つと、逃げるように店を出た。背後から、彼が追いかけてくることはなかった。
一人、夜道を歩きながら、涙が止まらなくなった。自分で終わらせたはずなのに、心にぽっかりと大きな穴が開いてしまったようだった。もう、彼からメッセージが来ることはない。彼とラーメンを食べることもない。彼と笑いあうこともない。
その頃、店に残された一条は、一人、手付かずのラーメンを見つめていた。
美咲がいなくなった日常。その喪失感は、一条が想像していたよりも、遥かに大きく、そして重かった。彼女が「終わりにする」と言った時の、泣きそうな笑顔。味のしないラーメンを、無理に口に運んでいた姿。その一つ一つが、彼の胸に深く突き刺さった。
一人で食べるラーメンが、こんなにも美味しくないなんて、知らなかった。
ただの口止め料。ただの気まぐれ。最初は、そうだったのかもしれない。でも、いつからだろう。彼女と食べるラーメンが、一週間のうちで最も楽しみな時間になっていた。彼女の「美味しい」という笑顔が、何よりの癒しになっていた。彼女の存在そのものが、自分の固く閉ざした心を、ゆっくりと溶かしてくれていたことに、彼は今更ながら気づいたのだ。
噂なんて、どうでもよかった。見合い話なんて、とっくに断っていた。ただ、彼女を守りたかった。彼女の笑顔を取り戻したかった。それなのに、自分の不甲斐なさのせいで、彼女を孤独に追い込み、別れを選ばせてしまった。
俺は、彼女を失いたくない。
自分の本当の気持ちと向き合った時、一条の心は決まった。プライドも、立場も、もう関係ない。ただ、自分の心に正直に行動しよう。
彼は、静かに立ち上がると、店主に会計を告げた。そして、夜の街へと駆け出していった。もう一度、彼女と向き合うために。自分の本当の想いを、伝えるために。




