第13章:広がる噂と、孤独な戦い
悪夢の夜が明けた翌朝、グランデ商事のオフィスは、目に見えない毒を含んだ空気で満たされていた。美咲が出社すると、いつも挨拶を交わす同僚たちが、さっと目を逸らす。すれ違いざまに聞こえてくる、ひそひそとした囁き声。
「ねえ、あれが噂の……」
「地味だと思ってたけど、やることやってるのね」
「部長も部長よね、あんな派遣に引っかかって」
噂の出どころは、言うまでもなく西園寺レイカだった。彼女は、昨夜目撃した光景に、悪意という名の尾ひれをつけ、一夜にして社内に広めていたのだ。
『地味な派遣社員が、契約更新のために部長を色仕掛けで誘惑した』
『高級な店で二人きりで食事なんて、絶対ただの関係じゃない』
『一条部長も、あの手に騙された被害者だ』
噂は、美咲を狡猾な悪女に仕立て上げ、一条を哀れな被害者に仕立て上げる、あまりにも都合の良いストーリーだった。美咲が必死の努力で企画を通し、契約を勝ち取ったという事実は、面白おかしいゴシップの前では、いとも簡単にねじ曲げられてしまった。
美咲は、冷たい視線の針の筵に座っているようだった。誰も、真実を知ろうとはしない。ただ、面白がって、あるいは蔑んだ目で、遠巻きにこちらを見ているだけ。信頼していたはずの派遣仲間の鈴木真由でさえ、どこか戸惑ったように距離を置いているのが分かった。
トイレに立てば、個室の中からくすくすという笑い声が聞こえる。給湯室に行けば、自分が入ってきた途端に会話が止まる。オフィスにいること自体が、耐え難い苦痛だった。
心を、閉ざすしかなかった。誰とも目を合わせず、ただひたすらにパソコンの画面だけを見つめる。昼休みも、一人でデスクに突っ伏して過ごした。食欲はなく、胃がキリキリと痛む。
一条は、何度も美咲に声をかけようとしていた。彼のデスクから、心配と怒りが入り混じったような強い視線を感じる。しかし、美咲は彼を拒絶した。彼が近づいてくれば、さっと席を立って資料室に逃げ込む。彼からのメッセージも、すべて未読のまま放置した。
今、彼と話せば、噂を肯定してしまうことになる。彼が自分を庇えば庇うほど、彼の立場が悪くなるだけだ。社長の甥という特別な立場である彼に、派遣社員とのスキャンダルという傷をつけてはならない。
それに、もう疲れてしまった。恋も仕事も、やっとうまくいくと思った矢先に、こんな仕打ち。どうして、私がこんな目に遭わなければいけないのか。
ある日の終業後。誰もいなくなったフロアで、一条が美咲のデスクの前に立ちはだかった。
「話がある」
その声は、有無を言わせぬほど強い響きだった。
「……話すことは、何もありません」
「あるだろう。このまま、何もないふりをし続けるつもりか? 君が、どれだけ傷ついているか……」
「傷ついてなんかいません」
美咲は、感情を殺した声で言い放った。
「噂なんて、気にしてませんから。それより、部長こそ、私のような者と関わっていると、迷惑がかかるんじゃないですか? お見合いの話も、あるそうですし」
その言葉は、本心と、そして棘を含んだ皮肉だった。一条は、一瞬、息をのんだように見えた。
「頼むから、一人で抱え込まないでくれ。俺が、なんとかする」
「やめてください!」
美咲は、思わず声を荒らげた。
「これ以上、私に関わらないでください。部長の親切は、もう、迷惑なんです」
その言葉が、どれだけ彼を傷つけるか分かっていながら、そう言うしかなかった。これ以上、彼をこの醜い騒動に巻き込みたくない。そして、これ以上、自分が惨めになりたくない。
美咲の瞳から、堪えていた涙が一筋、流れ落ちた。それを見た一条は、何かを言おうとして、しかし、固く唇を結んだ。そして、深く傷ついた瞳で美咲を一度だけ見つめると、静かに背を向けて去っていった。
一人残されたオフィスで、美咲はその場に崩れ落ちるようにして泣いた。
どうして、こうなってしまったのだろう。ただ、彼と一緒に食べるラーメンが美味しくて、彼の笑顔が見たくて、彼に認められたくて。それだけだったはずなのに。
孤独な戦いは、美咲の心を蝕み、大切な人さえも遠ざけてしまっていた。




