第12章:目撃された夜
一条のアドバイスは、まさに神の一手だった。彼が示してくれた方向性をもとに、美咲は寝る間も惜しんで企画を練り直し、ついに完璧な改善案を完成させた。
プレゼンの日。美咲は、人事部のマネージャーと、そして一条を含む営業企画部の幹部たちの前で、震える声ながらも、堂々と自分の企画を説明した。必死に準備したデータ、熱意を込めた言葉。今の自分にできる、すべてを出し切った。
プレゼンが終わると、会議室は一瞬の静寂に包まれた。重い沈黙に、美咲の心臓が早鐘を打つ。だめだったのかもしれない。そう思った瞬間、一条が静かに口を開いた。
「……素晴らしい。見事な改善案だ。特に、ターゲット心理を深く分析した上でのSNS戦略は、即実行に移すべきレベルだ。よくやったな、佐藤さん」
その言葉は、万雷の拍手よりも、どんな賛辞よりも、美咲の心に深く響いた。ずっと聞きたかった言葉。彼に「よくやった」と、褒めてもらえた。それだけで、今までの苦労がすべて報われた気がした。
結果は、言うまでもない。美咲の企画は見事に採用され、それに伴い、派遣契約の更新も無事に決まった。まるで、ジェットコースターのような一ヶ月だった。
その日の夜、一条からメッセージが届いた。
『祝賀会をやろう。今夜、二人で』
彼が指定したのは、都心にひっそりと佇む、創作ラーメンの店だった。ジャズが流れるモダンな内装で、一杯数千円もする、少し高級な店だ。
店に着くと、いつもの変装をしていない、スーツ姿の一条が待っていた。
「おめでとう。本当に、よく頑張った」
そう言って微笑む彼の顔は、心からの祝福に満ちていた。
「ありがとうございます。全部、部長のおかげです」
「俺は、少しヒントを与えただけだ。あれを形にしたのは、君自身の力だ」
シャンパンで乾杯し、運ばれてきたのは、まるでフレンチの一皿のように美しいラーメンだった。トリュフが香る泡立てられたスープに、低温調理されたピンク色のチャーシュー。
「美味しい……!」
一口食べて、美咲は思わず声を上げた。複雑で、深みがあって、今まで食べたことのない味。
「君の努力が実った味は、どうだ?」
「最高です!」
喜びと安堵感で、美咲の心は羽のように軽かった。久しぶりに、心から笑い合えた。すれ違っていた日々が嘘のように、二人の間には穏やかで、幸せな空気が流れていた。一条の例の見合い話のことも、今はもう気にならなかった。この瞬間が、あまりにも幸せだったから。
「これからも、君の力が必要だ。営業企画部の一員として、期待している」
「……はい!」
正社員とか、派遣とか、そんな垣根を越えた、一人の人間としての言葉。それが、何よりも嬉しかった。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、店を出ると、心地よい夜風が頬を撫でた。
「今日は、本当にありがとうございました」
「礼を言うのは俺の方だ。素晴らしい企画をありがとう。そして……戻ってきてくれて、ありがとう」
最後の言葉は、ひどく優しい響きだった。美咲が、彼との関係に壁を作っていた日々のことを指しているのだと、すぐに分かった。
「ごめんなさい。あの時は……」
「いや、いい。俺の方こそ、君の気持ちを汲んでやれなかった」
店の前で、二人は見つめ合った。街灯の光が、彼の顔に柔らかな陰影を作っている。その瞳に吸い込まれそうになった、その時だった。
「……一条部長?」
凍りつくように冷たい声が、二人の間に割って入った。ハッとして声のした方を見ると、そこに立っていたのは、西園寺レイカだった。彼女は、仕事仲間らしい数人の男女と一緒に、偶然通りかかったようだった。
レイカの視線は、まず一条に向けられ、次に、その隣に立つ美咲へとスライドした。そして、その美しい瞳が、侮蔑と嫉妬の色に染まっていくのを、美咲ははっきりと見た。
「こんなところで、派遣さんと……ご一緒ですの?」
その言葉には、隠すことのない悪意が満ちていた。周囲の同僚たちも、興味津々な、あるいは非難するような目で、こちらを交互に見ている。
幸せな時間は、一瞬にして終わりを告げた。まるで、悪夢を見ているかのようだった。レイカの凍りつくような視線の中で、美咲と一条は、ただ言葉を失って立ち尽くすことしかできなかった。




