第1章:完璧な部長の、完璧じゃない秘密
【登場人物紹介】
◆佐藤 美咲
28歳、大手商社「グランデ商事」で働く派遣社員。営業企画部に所属。真面目で仕事は丁寧だが、自己肯定感が低く、地味で目立たない存在。残業後のご褒美に一人でラーメンを食べるのが至福の時。
◆一条 蓮
32歳、グランデ商事の営業企画部長。社長の甥と噂されるエリート。完璧な仕事ぶりと整った容姿で社内の憧れの的だが、部下には厳しい。実は厳格な家庭で育った反動で、B級グルメ、特にラーメンを深く愛している。
◆西園寺 レイカ(さいおんじ れいか)
営業企画部のエリート女性社員。一条とお似合いだと噂され、本人も一条に好意を寄せている。プライドが高く、派遣社員の美咲を見下している。
週明けのプレゼン資料、急な仕様変更の対応、鳴りやまない電話。目まぐるしい一週間を走り切り、ようやくたどり着いた金曜の夜。蛍光灯の白い光が目に痛いオフィスで、佐藤美咲は大きく伸びをした。パソコンの右下に表示された時刻は、午後九時半を回っている。
「……お疲れ様、私」
誰に言うでもなく呟き、シャットダウンした画面に映る自分を見る。緩くまとめた髪には後れ毛が数本。日中の緊張で強張っていた顔は、今は気の抜けた疲労の色が濃い。二十八歳、派遣社員。大手商社「グランデ商事」の営業企画部で働き始めて、もうすぐ二年が経つ。正社員のような華やかさも、大きな責任もないけれど、与えられた仕事はきっちりこなす。それが美咲のささやかなプライドだった。
静まり返ったフロアに、自分の足音だけが響く。営業企画部のエースたちが集まる花形の部署で、美咲はいつも空気のように存在していた。目立つのが苦手で、自分から意見を言うなんてとんでもない。そんな自分が、このきらびやかな場所で契約を更新し続けていられるのは、ただ真面目に、黙々と仕事をこなしているからだろう。
会社のビルを出ると、ひやりとした夜風が火照った頬を撫でた。都会の喧騒も、金曜の夜の解放感に満ちたざわめきも、今の美咲には心地よいBGMだ。一週間頑張った自分へのご褒美。行き先は、もう決まっている。ハイヒールがアスファルトを叩く音を少しだけ早め、美咲は雑居ビルが立ち並ぶ路地裏へと足を向けた。
お目当ては、知る人ぞ知る豚骨ラーメンの名店「麺屋 がむしゃら」。濃厚でクリーミーな豚骨スープに、パンチの効いた背脂。ここのラーメンを食べるためなら、どんな残業だって乗り越えられる。店の近くまで来ると、豚骨を炊き出す独特の、しかし食欲をそそる匂いが漂ってきた。
「よし、食べるぞー」
心の中でガッツポーズをして角を曲がった瞬間、美咲は思わず足を止めた。店の前に、五、六人の行列ができている。金曜の夜だから仕方ない。そう思い直して列の最後尾につこうとした、その時だった。
見間違いだろうか。行列の先頭から三人目にいる男性の背中に、見覚えがある気がした。いや、背中じゃない。その立ち姿だ。すらりとして、どこか張り詰めたような緊張感を漂わせる、まっすぐな背筋。美咲は息をのんだ。
まさか。
恐る恐る、少しだけ角度を変えて横顔を盗み見る。ニット帽を目深にかぶり、顔の半分は大きな黒縁のダテメガネで隠されている。いつも完璧にセットされた髪も、寸分の隙もない高級スーツ姿もない。ラフなパーカーに細身のジーンズという出で立ちは、まるで大学生のようだ。
けれど、間違いない。鼻筋の通ったシャープな輪郭。きゅっと結ばれた薄い唇。それは、毎日嫌というほど目にしている、営業企画部を率いる絶対的支配者――一条蓮部長、その人だった。
「ぶ、部長……?」
声にならない声が、喉の奥でか細く震える。社内では「氷の彫刻」「歩く完璧主義」と称され、その鋭い視線ひとつで部下を凍りつかせる一条部長。彼が、こんな庶民的な、油と湯気が充満するラーメン屋の行列に、しかも変装までして並んでいる。にわかには信じがたい光景に、美咲の頭は完全にフリーズした。
普段の彼からは、食生活の匂いすら感じられない。きっと三ツ星レストランで、ワイングラスを片手に美しい食事を楽しんでいるのだろうと、誰もが思っている。美咲だってそうだった。それなのに、今、目の前にいる彼は、店の入り口から漏れるラーメンの湯気を見つめ、どこかそわそわと落ち着かない様子で順番を待っている。その瞳は、企画の最終チェックをする時よりも真剣で、そして、見たこともないほどキラキラと輝いていた。まるで、おもちゃ屋の前で目を輝かせる子供のように。
強烈なギャップに、美咲は眩暈さえ覚えた。これは、見てはいけないものを見てしまった。グランデ商事の、そして一条部長の絶対的なイメージが、ガラガラと音を立てて崩れていく。もし、このことがバレたら……。いや、それ以前に、部長に私が見つかったら、どうなる?
「地味な派遣社員のくせに、俺のプライベートを嗅ぎまわるとは、いい度胸だな」
氷点下の声でそう言われ、次の契約更新はない、なんてことになりかねない。背筋に冷たい汗がツーっと流れるのを感じた。ご褒美のラーメンどころではない。
美咲は、音を立てないように、忍び足でそろり、そろりと後ずさった。どうか、気づかれませんように。心の中で必死に祈りながら、壁に身を隠すようにして数歩下がる。そして、くるりと踵を返し、一目散にその場から逃げ出した。全力疾走だった。
大通りまで出て、ようやく息を整える。心臓が、今までにないくらい激しく鼓動していた。楽しみにしていたこってり豚骨ラーメンの味は、もう思い出せない。頭の中は、パーカーにニット帽姿の一条部長の姿でいっぱいだった。
あの、子供みたいに輝く瞳。
完璧な部長の、完璧じゃない秘密。とんでもないものを手にしてしまったような罪悪感と、ほんの少しの好奇心が、美咲の心の中で渦を巻き始めていた。




