閑話Ⅰ|星を見ない夜
(ルシアン/フェリス/ポルックス)
夜は静かだった。
星は空に満ちているのに、今日はなぜか、見上げる気になれなかった。
ルシアンは、家の縁側に腰を下ろし、湯気の立つカップを両手で包んでいる。
星図も、占星盤も、今日は開いていない。
代わりに足元には、黒くて長い毛の猫が丸くなっていた。
「フェリス、重くない?」
そう声をかけると、猫は小さく喉を鳴らす。
否定でも肯定でもない、ただの音。
それが心地よくて、ルシアンは笑った。
フェリスは幸せだった。
暖かくて、安心できて、名前を呼ばれる。
それだけで、十分すぎる夜。
けれど、ふとした拍子に、フェリスは空を見る。
星が、少しだけ近い気がした。
理由は分からない。
分からないまま、目を細めて、また丸くなる。
思い出す必要はない。
今は猫で、ここにいる。
――それでいい。
少し離れた場所で、風が揺れた。
ポルックスは、まだ姿を持たない。
それでも、確かにそこにいる。
地上は、思っていたより静かだった。
争いもなく、嘆きもなく、
ただ、人が生きている。
その中心に、ひとりの少年と、一匹の猫。
「あれが……」
言葉にならない感情が、胸の奥で揺れた。
羨望でも、嫉妬でもない。
もっと単純で、もっと幼いもの。
――ここは、まだ壊れていない。
ポルックスは、それを確かめるように、夜の気配に身を沈めた。
「明日さ」
ルシアンが、独り言のように言う。
「天気、どうかな」
星を見れば分かる問いを、
今日は、星に聞かなかった。
フェリスは尻尾を一度、ぱたんと振る。
それで十分だと、言うみたいに。
星は、空にある。
世界は、まだ静かだ。
この夜が、
いつか失われることなど、
誰も知らないまま。




