(8)あたたかい夜
(直 × 黄月)
神殿の回廊は静かだった。
灯りは柔らかく、夜気も穏やか。
子どもたちはもう眠っている。
直は少し迷ってから、足を止めた。
黄月はすぐ気づく。
振り返らなくても分かる。
「直くん?」
声は、いつも通りやわらかい。
「……起きてたんですね」
「うん。今日は少しだけ書き物があって」
振り向いた黄月は、穏やかに微笑んでいる。
直は視線を逸らす。
用件は決まっている。
でも、言葉がまとまらない。
黄月は急かさない。
それが彼女だ。
「座る?」
促されて、直は隣に腰を下ろす。
沈黙。
静かな時間。
黄月は何も読まない。
テレパシーも使わない。
聞かれたくない時は、聞かない。
それを知っているから、直はここへ来た。
「……力って」
ぽつりと落ちる。
黄月は横目で見る。
「うん」
「どこまで求めていいと思います?」
抽象的な問い。
けれど、黄月は意味を理解する。
「守るため?」
直は少しだけ間を置く。
「それもある」
“それも”。
黄月はそこで確信する。
守るだけじゃない。
「隣に、立ち続けるため?」
優しく、核心を撫でる。
直の肩が、わずかに止まる。
否定しない。
「人は、歳を取るよ」
黄月は事実を言う。
「でも、歳を取ることは、悪いことじゃない」
直は小さく笑う。
「分かってます」
分かっている。
それでも。
「……先にいなくなるのは嫌だ」
本音が零れる。
黄月は目を細める。
その言葉は、十代のものだ。
賢くても。
冷静でも。
やっぱり若い。
「直くん」
名前を呼ぶ。
「力を求めることは、悪くないよ」
肯定から入る。
「でもね」
少しだけ声が深くなる。
「何を捨てるかを、ちゃんと知ってから選んでほしい」
直は視線を上げる。
「寿命を伸ばす力があるとしたら?」
「あるよ」
あっさり言う。
「でも、代償は必ずある」
黄月は微笑む。
「身体じゃなくて、心だったりね」
直の表情が固まる。
そこは考えきれていなかった。
「感情が薄くなるかもしれない」
その言葉に、直の瞳が揺れる。
藤紫が脳裏に浮かぶ。
「時間の流れが、周りとずれるかもしれない」
「……」
「それでも欲しい?」
黄月は責めない。
ただ、問う。
直はすぐに答えない。
長い沈黙。
やがて。
「……分からない」
正直な答え。
黄月は嬉しそうに微笑む。
「それでいい」
即答しないこと。
迷うこと。
それが大事。
「直くんは、もう十分強い」
そう言って、そっと肩に触れる。
「でもね」
声がさらにやわらかくなる。
「“一人で決めない強さ”もあるんだよ」
直が顔を上げる。
「相談することは、弱さじゃない」
その言葉は、真っ直ぐ届く。
直は息を吐く。
少しだけ、肩の力が抜ける。
「……紫苑にも、気づかれてますか」
黄月はくすっと笑う。
「とっくに」
「ですよね」
観念したように苦笑する。
黄月は立ち上がる。
「答えは急がなくていい」
振り返る。
「あなたが選ぶなら、私は止めない」
それが黄月。
包み、委ねる。
「でも」
最後に、やわらかく。
「あなたが人でいることを、私は嫌いじゃないよ」
直は何も言えない。
ただ、小さく頷く。
夜は静かだ。
けれど、さっきより少しだけ温かい。
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(黄月 × リエル)
直の足音が遠ざかる。
角を曲がって、完全に気配が消えた頃。
黄月は小さく息を吐いた。
「……聞いてましたよね?」
天井を見上げて言う。
一拍。
ふわり、と月光が揺れる。
「うん、聞いてた!」
明るい声。
光が集まり、小柄な影が形をとる。
長い髪が揺れて、楽しそうに笑っている。
リエルだ。
まだどこか少女の面影を残す龍神。
「盗み聞きって言うんじゃないですか?」
黄月がやわらかく言う。
「だって気になるじゃん」
悪びれない。
「直、あんな顔するようになったんだね」
黄月は目を細める。
「成長しました」
「うん」
リエルは素直に頷く。
「ちょっと格好よかった」
黄月がくすりと笑う。
「親ばかですか?」
「えー、だってほんとに!」
リエルは回廊の欄干に腰かけるように浮かぶ。
足は床につかない。
「時間のこと考えてるんでしょ?」
声は軽いけれど、核心を射る。
黄月は頷く。
「ええ」
「真面目だなあ」
リエルは空を見上げる。
「人間って、そこがいいよね」
「有限だから?」
「そう!」
ぱっと笑う。
「終わりがあるから、今を選ぶ」
黄月は少しだけ表情を曇らせる。
「でも直は、その“終わり”を変えようとしています」
リエルは首をかしげる。
「変えたいなら、変えればいいじゃん?」
あっけらかん。
黄月が少し驚く。
「止めないんですか?」
「うーん」
リエルは考える仕草をする。
少女らしく、素直に。
「止めたら、後悔するかもしれないでしょ」
軽い声。
けれど本音。
「わたしは選ばせたい」
黄月は静かに見る。
「代償があっても?」
「あるね」
即答。
「だいたい何かは減る」
さらっと言う。
残酷ではない。
ただ事実。
「でも」
リエルは黄月を見る。
「減るかどうかも、本人が決めることじゃない?」
その言葉に、黄月は少しだけ微笑む。
「ずいぶん自由ですね」
「自由じゃなきゃつまんないもん」
屈託なく笑う。
まだ、重さを背負いきっていない龍神。
「ねえ黄月」
リエルが急に真顔になる。
「直が人間のままだったら、悲しい?」
黄月は少し考える。
「いいえ」
即答。
「私は、人の直くんも好きです」
リエルはほっとしたように笑う。
「そっか」
「でも」
黄月は続ける。
「彼が選ぶなら、私は止めません」
リエルはうんうんと頷く。
「それでいいよ」
軽い調子で言う。
「だってさ」
少しだけ悪戯っぽく笑う。
「わたしの眷属になるの、そんなに簡単じゃないし」
黄月が小さく目を見開く。
「もう勧誘する気ですか?」
「してないしてない!」
笑いながら手を振る。
「ただ、覚悟は見るけどね」
月光が少し強くなる。
無邪気な笑顔の奥に、龍の気配が一瞬だけ覗く。
すぐ消える。
「直、ちゃんと迷ってる」
リエルは満足そうに言う。
「だから大丈夫」
黄月は小さく息を吐く。
「……あなた、案外ちゃんと見てますね」
「でしょ?」
得意げ。
そしてひらりと立ち上がる。
「黄月も削れすぎないでね」
今度は少しだけ優しい声。
「子ども見守る係、いなくなったら困るから」
そう言って、光がほどける。
月夜が静かに戻る。
黄月は一人、立ったまま微笑む。
「本当に……まだ少女ですね」
けれど。
その背に宿る力は確かだ。
直が選ぶ未来。
まだ誰も知らない。
でも今は。
少しだけ、夜が軽い。




