(1)隣に立つ覚悟
(――藤紫/独白)
夜は、静かだ。
静かな場所は嫌いじゃない。
けれど最近は、その静けさが重い。
胸の奥で鳴っていたはずの音が、
ひとつずつ減っていく。
怒りも、焦りも、迷いも。
均されていく。
世界の流れが、以前より鮮明に見える。
歪みの位置。
崩れる前兆。
優先順位。
分かってしまう。
それが、選ばれたということ。
私は観測者にされた。
望んだわけじゃない。
断れるものでもなかった。
ただ、世界が決めた。
気づいたときには、
もう引き返せない位置に立っていた。
……理不尽だと思わなかったわけじゃない。
でも、嘆く時間は与えられなかった。
直はまだ成長途中で、
世界は待ってくれない。
だから私は、理解する側に回った。
受け入れるしかなかった。
...それでも。
直が笑うと、胸の奥がわずかに温かくなる。
その温度が、少しずつ薄れているのを
私は知っている。
感情が消えたわけじゃない。
ただ、優先順位が変わる。
世界が上に来る。
それだけのこと。
それだけの、はずなのに。
怖い。
直は気づいているだろうか。
あの子は敏い。
私が一瞬だけ視線を逸らすことも、
触れる手の硬さも、覚えている。
だからこそ。
あの子は、人として生きてほしい。
老いてもいい。
迷ってもいい。
私の隣で、冷えていく未来を見せたくない。
けれど。
---本当は。
隣にいてほしい。
その矛盾を抱えたまま、
私は今日も観測する。
選ばれた者として。
姉として。
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襖の向こうで、声が途切れた。
直は、息を止めたまま動けなかった。
盗み聞きするつもりはなかった。
ただ、水を取りに来ただけだった。
けれど、名前が聞こえた。
自分の名前。
それだけで、足が止まった。
姉の声は静かだった。
泣いていない。
震えてもいない。
それが、余計に重い。
「選ばれた」
「断れなかった」
「引き返せない」
淡々とした言葉。
でも、直には分かる。
その静けさが、どれだけ削られた後のものか。
襖越しでも、分かる。
昔の姉なら、もっと怒っていた。
理不尽だと、吐き捨てていた。
今は違う。
受け入れている。
世界を優先している。
自分よりも。
直の指先が、わずかに震える。
姉は、自分を置いていくつもりだ。
守るために。
冷えていく隣から、遠ざけるために。
その優しさが、腹立たしいほど分かる。
直は、そっと襖から離れた。
足音を立てないように。
知らないふりをする。
今は、まだ。
けれど胸の奥で、何かが決まる。
姉が選べなかったなら。
選ぶのは、自分だ。
まだ、何をどうするかは分からない。
でも。
――隣を、手放さない。
直は静かに廊下を歩いた。
その背は、もう子どもではなかった。




