(2)境に触れる
(視点:赤月)
結界が、わずかに揺れた。
赤月は歩みを止める。
大きな異変ではない。
嵐の前触れでも、封印の綻びでもない。
――子ども達かもしれない
そう判断するより早く、胸の奥がざわついた。
神路に近い。
あの場所は、神が通るための道であって、
こちらから近づくためのものではない。
見えないだけで、境はそこにある。
不用意に開けば、向こうと繋がる。
こちらが迷い込むこともあれば、
向こうの迷い人が、こちらへ流れ込むこともある。
それは、帰れなくなるということだ。
「……っ」
赤月は駆ける。
結界の縁。
そこにいたのは、やはり――
「陽向! 朝日!」
名を呼ぶ声が、思ったより強くなった。
双子は同時に振り返る。
ばつの悪そうな顔。
分かっていてやった顔。
朝日が、少しだけ手を伸ばしていた。
ほんの指先。
触れてはいない。
だが、近すぎる。
「何してる!」
理由なんて、言わない。
言えない。
あれは説明するものじゃない。
感じてはいけないものだ。
「戻れ! 今すぐだ!」
双子は顔を見合わせ、渋々距離を取る。
結界の揺れが、すっと収まる。
――間に合った。
その瞬間、赤月は気づく。
少し離れた場所に、
一人、静かに立たっている影がある。
直だ。
近づいていない。
触れてもいない。
止めようともしなかった。
ただ、見ている。
双子を見ているのではない。
結界を、神路を、
世界の反応そのものを見ていた。
赤月の胸に、言葉にできない違和感が生まれる。
この子は――
最初から、分かっていた。
ここが危ないからではない。
禁止されているからでもない。
ここは、自分が通る道ではないと。
「……お前たち」
低い声が落ちた。
振り返ると、橙生が立っている。
その表情を見た瞬間、双子の背が強張る。
「何度言えば分かる」
叱責は静かだが、重い。
陽向と朝日は完全に俯いた。
守るための怒り。
子どもに向けられた、大人の声。
だが――
直には向けられない。
橙生は直を見ない。
呼びもしない。
赤月は、それを見逃さなかった。
同じ場所にいた。
同じ年頃だ。
それでも、
守られ方が違う。
直は、最初から自分で距離を取っていた。
だから、引き戻される必要がない。
神路は、今日も何事もなく静まっている。
事故は起きなかった。
迷い人も出なかった。
けれど赤月は、確信してしまった。
――世界は、もうこの子を
「迷い込む側」とは見ていない。
直は、まだ子どもだ。
けれど同時に、
境を知る側に立ち始めている。
それが良いことなのか、
悪いことなのか。
今は、まだ分からない。
ただひとつ。
この世界は、
静かに、確実に、
直を見る目を変え始めていた。
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(橙生・赤月・リエル/リエルの執務室)
リエルの執務室は、他と比べれば柔らかい空気を持っていた。
淡い光を取り込む窓。
過剰ではないが、どこか遊び心のある調度。
執務の場でありながら、張り詰めすぎない空間。
その中央に、リエルは腰掛けている。
向かいに立つのは橙生。
一歩下がって赤月。
「それで?」
リエルは書類から視線を上げ、穏やかに促した。
赤月が口を開く。
「神路付近で、結界に微細な反応が出ました。
原因は、双子の接近です」
「接触は?」
「ありません。未然に距離を取らせました」
リエルは小さく頷く。
想定内、という反応だ。
「橙生も、その場にいたのね」
「ええ」
橙生は短く答える。
「叱責は現地で済ませました。
事故性はありません」
リエルは視線を伏せ、次を待つ。
赤月は一拍置いて、続けた。
「……もう一人、同席していました」
リエルの指が、止まる。
「直、ですね」
確認ではない。
名前を出しただけだ。
「はい」
赤月は頷く。
「近づいてはいません。
結界にも、神路にも」
「止める素振りも?」
リエルの問いに、橙生が答えた。
「なかった。
だが、必要もなかった」
その言葉で、空気が少しだけ締まる。
赤月が補足する。
「最初から、踏み込まない距離にいました。
――見ていただけです」
「世界を?」
リエルが微笑む。
「境を。
反応を。
自分の立ち位置を」
リエルは静かに息を吐いた。
「……早いですね」
感想に近い一言。
橙生は否定しない。
「だが、越えてはいない」
「ええ」
赤月も同意する。
「選んでいません。
まだ」
リエルは椅子にもたれ、天井を仰ぐ。
「あら……もうそこまで見ちゃったの?」
「見てしまった、な」
橙生の声は低い。
「知識ではない。理解でもない」
赤月が続ける。
「感覚です。
越えない理由を、説明せずに持っている」
リエルは少しだけ、困ったように笑った。
「あんまり早く大人にならないでほしいんだけどなぁ」
沈黙。
否定は、誰もしなかった。
「今は、まだいい」
橙生が結論を出す。
「子どもだ。
境を“知った”だけだ」
「藤紫には?」
リエルが視線を戻す。
「知らせていません」
赤月が即答する。
「知ることで、
あの子は距離を詰めてしまう」
リエルは頷いた。
「ええ。
藤紫は“知らずに手を引く”ままでいいの」
藤紫は、まだ知らなくていい...
しばらくして、リエルは書類を閉じる。
「共有はここまでで」
柔らかい声だが、決定だった。
「見るのは自由。でも、選ぶのはまだ早いの。あの子は、まだ子どもなんだから」
橙生と赤月は、同時に一礼した。
執務室の空気は、元の穏やかさに戻る。
だが、その中心に残った判断は、
確かに、重かった。
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(視点:紫苑)
紫苑は報告書を閉じた。
文面は簡潔で、余分な感情はない。
起きたことも、起きなかったことも、正確に書かれている。
――問題はない。
そう判断するには、十分だった。
それでも、紫苑は一度だけ視線を落とす。
そこに直の名前がある。
現場を見ていない。
見る必要もなかったはずだ。
それでも、
なぜか一拍遅れて、胸の奥がざわつく。
「……まだ、早いな」
独り言は、誰にも聞かれない。
紫苑は再び、地上の報告に目を戻した。




