(1)直を見ている世界
(視点:紫苑)
直は、藤紫の手を離さなかった。
誰かに言われたわけでも、
不安そうにしがみついているわけでもない。
ただ、ごく自然に、そこに在るものとして。
紫苑は少し離れた場所から、その様子を見ていた。
藤紫は直に文字を教えている。
読み方を急かすことも、理解を強いることもない。
間違えれば待ち、分からなければ言い換える。
——あの子は、教えているつもりはないのだろう。
共に歩き、共に考え、
同じ速度で世界を見ることを選んでいるだけだ。
「……良い関係ですね」
隣に立つ眷属の一人が、ぽつりと漏らした。
紫苑は小さくうなずく。
「ええ。直は、あの手を離さなかった。
だからきっと、これからも離さないでしょう」
藤紫は導こうとしない。
直は依存しない。
それでも二人は並び、
同じ方向を見ている。
それは偶然ではなく、
育まれた関係だった。
「藤紫にとっても、良いことなのですか」
問いは慎重だった。
直のためではなく、藤紫のために問うている。
紫苑は視線を外さずに答える。
「ええ。守るだけでは、成長しません。
見守るだけでも、足りない」
藤紫は、直と共に世界を見ることで、
自分の立ち位置を確かめている。
それは姉として。
それは人として。
紫苑は、その在り方を尊重していた。
「……では、まだ」
「ええ。まだです」
紫苑の声は、穏やかだった。
直は今、選び始めたばかりだ。
知ることを望み、学ぶことを決めた。
だがそれは、誰かに引き離されるためではない。
——繋がったまま、前へ進むための選択。
紫苑は、二人の背を見送りながら、
胸の奥にあったわずかな緊張が、静かに解けていくのを感じていた。
世界は、直を見ている。
だが今は、
藤紫の手が、まだ世界との距離を保っている。
それでいい。
今は、それでいい。




