人の閑話IX|藤紫と直 ― 幼い日
神殿の夜は、音が少ない。
藤紫は、白い床の上に布団を敷く。
自分の分と、直の分。
布は薄いけれど、冷たくはない。
敷き終えるころには、神殿の光も少し弱まっていた。
直は、よく泣く。
小さな声で、途切れ途切れに。
藤紫は隣に座って、直を抱き上げる。
「……おなか、すいたの?」
返事はない。
ただ、泣き声が少しだけ変わる。
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(視点:直)
神殿の夜は、暗くならない。
光は弱くなるけれど、消えはしない。
天井の奥で、白い明かりが静かに揺れている。
それを、直はよく覚えていない。
覚えているのは、もっと近くのものだ。
あたたかい腕。
布の匂い。
胸の上下。
泣くと、揺れる。
少しだけ、上下に。
揺れは速くも遅くもなくて、
止まることもない。
「……だいじょうぶ」
低い声がする。
やわらかくも、甘くもない。
でも、その声が聞こえると、胸の奥が少し落ち着いた。
直は、よく泣いた。
理由は分からない。
息をするのが苦しかったり、
何かが足りなかったり、
ただ、ひとりでいる感じが怖かったり。
泣くと、声が来る。
泣くと、腕が来る。
それは、いつも同じだった。
それだけで、世界は続いた。
夜が長いときもあった。
泣いても、すぐには静かにならない夜。
藤紫は、布団の上に座ったまま、
直を胸に抱いて、背中を叩く。
とん、とん、とん。
少し小さな力。
でも、止まらない。
とん、とん、とん。
規則正しい音。
心臓とは少し違う。
「ここにいる」
それは、言葉だったり、
ただの息だったりした。
神殿は広い。
音は遠くへ行ってしまう。
でも、この場所だけは、音が逃げなかった。
直は、知らなかった。
ここが地上ではないことも、
ここに人間が少ないことも。
ただ、時々思う。
——この人は、眠らない。
目を閉じていても、
手は離れない。
体温も、変わらない。
他の子たちは、泣かない。
夜になると、静かに眠る。
直だけが、違った。
違う、ということを、
藤紫は口にしなかった。
「泣いてもいい」
そう言われた気がした。
実際に、そう言われたことはない。
でも、泣いても、ここにいられた。
ある夜、直は泣き疲れて、
藤紫の胸の上で眠った。
夢は、なかった。
ただ、あたたかさだけがあった。
その夜、藤紫は布団を敷き直さなかった。
自分の分も、直の分も。
抱いたまま、座っていた。
神殿の光は、変わらず揺れていた。
夜が終わっても、
何も変わらなかった。
その「変わらなさ」が、
直にとっては、
最初の世界だった。




