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『救済ではなく、継承の物語』― アストラル継承記 ―  作者: 龍の末裔
【三幕】第59章|『原初』
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(16)失ったもの

(視点:由良)


夜が深くなる。


それでも、眠ることはなかった。


眠る必要がない。

――吸血鬼だから。


そう思えば、以前なら少しだけ笑えたかもしれない。


けれど今は。

その事実すら、ただ重かった。


由良は、机の上に置かれた小さな箱を見つめていた。


異国の装飾が施された箱。


もう、何度見たか分からない。


ゆっくりと手を伸ばし、そっと蓋を開ける。


中には――


黒い種。

金色の炎を纏うように、淡い光を揺らしている。


理永が死んだあの日。


彼女の身体から零れ落ち。

由良が拾い上げたもの。


それが、今もここにある。


「……」


指先で、箱の縁に触れる。


その箱には、以前は別のものが入っていた。


理永が、大切にしていたもの。


髪飾り。


由良が贈ったものだった。


理永の髪を整えることは、いつの間にか由良の日常のひとつになっていた。


朝。


理永が本を読んでいる横で。


風が強い日に乱れた髪を、そっと指で整える。


長い髪を手に取り。


絡まったところを、ゆっくりとほどく。


「……動くな」


そう言えば、


「動いてないよ」


理永は少しだけ笑っていた。


そんな時間が、好きだった。


髪を整え終えたあと。


最後に髪飾りを留める。


「……これでいい」


そう言うと。


理永は小さく首を傾げて。


「ありがとう、由良」


そう言った。


――ただ、それだけ。


特別なことなんて何もない。


けれど。


由良にとっては、大切な時間だった。


だから。

髪飾りを贈った。


理永が、それを大切にしてくれていることも知っていた。


「……」


由良は、箱の中を見つめる。


今はもう。

そこに髪飾りはない。


代わりにあるのは――


黒い種。

淡い金色の炎。

不安定に揺れる光。


「……」


指先が、わずかに震える。


理永の髪に触れた感触を思い出す。


柔らかかった。


指の間を滑る髪。


絡まったところを、少しずつほどいていく。


時々、理永が本から目を離さずに、


「……まだ?」


なんて言う。


「もう少し」


そう答える。


そんなやり取りすら。


今となっては――


もう、できない。


「……」




由良は、自分の手を見る。


以前なら。


この手には、神聖力があった。


理永が初めて出会った時から、興味を向けていた力。


触れれば分かるほどの、膨大な神聖。


理永は、それを何度も見つめていた。


不思議そうに。

嬉しそうに。


時には、子供のような目で。


「……綺麗」


そう言っていた。


由良は、その言葉を覚えている。


忘れられるはずがない。


理永が好きだったもの。

理永が興味を持っていたもの。


理永が、自分の中にあるものとして愛してくれたもの。


それを――

由良は、失った。


「……」


手を握る。


もう、そこに神聖はない。


あるのは。

血を求める本能。

飢え。

人とは違う身体。


そして――

持て余すほどの力。


「……」


無意識に、魔力が滲む。

空気が、わずかに歪む。

部屋の中に、異質な気配が広がる。


以前から。

完全には、抑えられていなかった。


感情が揺れれば、漏れる。

力を使えば、周囲に残る。


自分でも制御しきれないほどの何かが、身体の奥から滲み出てくる。


それが今は――

以前よりも濃い。


「……やめろ」


自分に言い聞かせる。


けれど。

止まらない。


由良の指先から、わずかに魔性が漏れ。

床に落ちた影が、ほんの一瞬だけ不自然に揺れた。


「……」


由良は、それを見つめる。


こんなもの。

理永が好きだったものじゃない。


理永が見ていたのは――

もっと違うものだった。



神聖。

光。

温もり。


そして。

自分の手の中にあった、理永の髪。


「……」


由良は目を閉じ思い出す。


あの日。

理永が手を伸ばした。


触れようとしてくれた。


ほんの少し。

あと少しだった。


けれど。

自分は下がった。


傷つけたくなかった。

守りたかった。


だから。

変質する事を選んだ。

この身体を選んだ。


生き方を選んだ。


――理永と生きるために。


「……なのに」


声が掠れる。


目を開く。


箱を見る。


黒い種が、静かに揺れている。


「……何も、残らなかった」


違う。


残っている。


種がある。


箱もある。


理永の本も。


紙も。


部屋も。


記憶も。


全部、残っている。


けれど。


「……温かくない」


あの日。


腕の中にあった温もり。


触れた身体。


髪。


指先。


声。


それらは、もうどこにもない。


どれだけ記憶を辿っても。


どれだけ手を伸ばしても。


もう――触れられない。


由良は、ゆっくりと自分の手を握り込む。

強く。

爪が皮膚に食い込む。


「……」


痛みは、ほとんど感じなかった。

吸血鬼になった身体は、以前とは違う。


けれど。

その手が覚えている。


理永の髪の感触を。

理永の手の温度を。

最後に触れた時の重みを。


「……」


指を開く。


空っぽだった。

そこには何もない。


「……理永」


名前を呼ぶ。

返事はない。


ただ。

箱の中で、黒い種だけが淡い金色の炎を揺らしている。


「……」


由良は、種を見つめる。


これは何なのか。

まだ分からない。


理永が何を残したのかも。

なぜ、自分の手元にこれが残ったのかも。


ただ――

捨てることだけは、できなかった。


理永から零れ落ちたもの。

最後に、自分の手の中へ残ったもの。

それだけだった。


「……」


箱の蓋を閉じる。


小さな音がした。

その音が、妙に大きく響いた。


由良は、その箱に手を置いた。


以前、ここには髪飾りがあった。

今は――

理永から零れ落ちた種がある。


――何かを失うたび。

別の何かが残っていく。


けれど。

残されたものが増えても。

失ったものは、戻らない。


「……」


由良は、箱から手を離す。


そして、自分の胸元へ視線を落とした。


残っているのは。

吸血鬼としての力と。

消えない飢え。

抑えきれずに漏れ出す魔性。


そして――

理永のいなくなった世界。


「……」


その事実を。


今になって、ようやく。

由良は、真正面から見つめていた。


自分は。

理永と生きるために。


理永が愛してくれたものを、捨てた。


それでも。

理永は、いなくなってしまった。


「……」


何も言えなかった。

言葉にすれば。

本当に、すべてを失ったような気がした。


だから。

ただ、箱を見つめる。


そこにある小さな種だけを。


長い時間。

由良は、動かなかった。


――失ったものは、戻らない。


そのことだけが。

静かな夜の中で、何度も胸に残った。





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