(16)失ったもの
(視点:由良)
夜が深くなる。
それでも、眠ることはなかった。
眠る必要がない。
――吸血鬼だから。
そう思えば、以前なら少しだけ笑えたかもしれない。
けれど今は。
その事実すら、ただ重かった。
由良は、机の上に置かれた小さな箱を見つめていた。
異国の装飾が施された箱。
もう、何度見たか分からない。
ゆっくりと手を伸ばし、そっと蓋を開ける。
中には――
黒い種。
金色の炎を纏うように、淡い光を揺らしている。
理永が死んだあの日。
彼女の身体から零れ落ち。
由良が拾い上げたもの。
それが、今もここにある。
「……」
指先で、箱の縁に触れる。
その箱には、以前は別のものが入っていた。
理永が、大切にしていたもの。
髪飾り。
由良が贈ったものだった。
理永の髪を整えることは、いつの間にか由良の日常のひとつになっていた。
朝。
理永が本を読んでいる横で。
風が強い日に乱れた髪を、そっと指で整える。
長い髪を手に取り。
絡まったところを、ゆっくりとほどく。
「……動くな」
そう言えば、
「動いてないよ」
理永は少しだけ笑っていた。
そんな時間が、好きだった。
髪を整え終えたあと。
最後に髪飾りを留める。
「……これでいい」
そう言うと。
理永は小さく首を傾げて。
「ありがとう、由良」
そう言った。
――ただ、それだけ。
特別なことなんて何もない。
けれど。
由良にとっては、大切な時間だった。
だから。
髪飾りを贈った。
理永が、それを大切にしてくれていることも知っていた。
「……」
由良は、箱の中を見つめる。
今はもう。
そこに髪飾りはない。
代わりにあるのは――
黒い種。
淡い金色の炎。
不安定に揺れる光。
「……」
指先が、わずかに震える。
理永の髪に触れた感触を思い出す。
柔らかかった。
指の間を滑る髪。
絡まったところを、少しずつほどいていく。
時々、理永が本から目を離さずに、
「……まだ?」
なんて言う。
「もう少し」
そう答える。
そんなやり取りすら。
今となっては――
もう、できない。
「……」
由良は、自分の手を見る。
以前なら。
この手には、神聖力があった。
理永が初めて出会った時から、興味を向けていた力。
触れれば分かるほどの、膨大な神聖。
理永は、それを何度も見つめていた。
不思議そうに。
嬉しそうに。
時には、子供のような目で。
「……綺麗」
そう言っていた。
由良は、その言葉を覚えている。
忘れられるはずがない。
理永が好きだったもの。
理永が興味を持っていたもの。
理永が、自分の中にあるものとして愛してくれたもの。
それを――
由良は、失った。
「……」
手を握る。
もう、そこに神聖はない。
あるのは。
血を求める本能。
飢え。
人とは違う身体。
そして――
持て余すほどの力。
「……」
無意識に、魔力が滲む。
空気が、わずかに歪む。
部屋の中に、異質な気配が広がる。
以前から。
完全には、抑えられていなかった。
感情が揺れれば、漏れる。
力を使えば、周囲に残る。
自分でも制御しきれないほどの何かが、身体の奥から滲み出てくる。
それが今は――
以前よりも濃い。
「……やめろ」
自分に言い聞かせる。
けれど。
止まらない。
由良の指先から、わずかに魔性が漏れ。
床に落ちた影が、ほんの一瞬だけ不自然に揺れた。
「……」
由良は、それを見つめる。
こんなもの。
理永が好きだったものじゃない。
理永が見ていたのは――
もっと違うものだった。
神聖。
光。
温もり。
そして。
自分の手の中にあった、理永の髪。
「……」
由良は目を閉じ思い出す。
あの日。
理永が手を伸ばした。
触れようとしてくれた。
ほんの少し。
あと少しだった。
けれど。
自分は下がった。
傷つけたくなかった。
守りたかった。
だから。
変質する事を選んだ。
この身体を選んだ。
生き方を選んだ。
――理永と生きるために。
「……なのに」
声が掠れる。
目を開く。
箱を見る。
黒い種が、静かに揺れている。
「……何も、残らなかった」
違う。
残っている。
種がある。
箱もある。
理永の本も。
紙も。
部屋も。
記憶も。
全部、残っている。
けれど。
「……温かくない」
あの日。
腕の中にあった温もり。
触れた身体。
髪。
指先。
声。
それらは、もうどこにもない。
どれだけ記憶を辿っても。
どれだけ手を伸ばしても。
もう――触れられない。
由良は、ゆっくりと自分の手を握り込む。
強く。
爪が皮膚に食い込む。
「……」
痛みは、ほとんど感じなかった。
吸血鬼になった身体は、以前とは違う。
けれど。
その手が覚えている。
理永の髪の感触を。
理永の手の温度を。
最後に触れた時の重みを。
「……」
指を開く。
空っぽだった。
そこには何もない。
「……理永」
名前を呼ぶ。
返事はない。
ただ。
箱の中で、黒い種だけが淡い金色の炎を揺らしている。
「……」
由良は、種を見つめる。
これは何なのか。
まだ分からない。
理永が何を残したのかも。
なぜ、自分の手元にこれが残ったのかも。
ただ――
捨てることだけは、できなかった。
理永から零れ落ちたもの。
最後に、自分の手の中へ残ったもの。
それだけだった。
「……」
箱の蓋を閉じる。
小さな音がした。
その音が、妙に大きく響いた。
由良は、その箱に手を置いた。
以前、ここには髪飾りがあった。
今は――
理永から零れ落ちた種がある。
――何かを失うたび。
別の何かが残っていく。
けれど。
残されたものが増えても。
失ったものは、戻らない。
「……」
由良は、箱から手を離す。
そして、自分の胸元へ視線を落とした。
残っているのは。
吸血鬼としての力と。
消えない飢え。
抑えきれずに漏れ出す魔性。
そして――
理永のいなくなった世界。
「……」
その事実を。
今になって、ようやく。
由良は、真正面から見つめていた。
自分は。
理永と生きるために。
理永が愛してくれたものを、捨てた。
それでも。
理永は、いなくなってしまった。
「……」
何も言えなかった。
言葉にすれば。
本当に、すべてを失ったような気がした。
だから。
ただ、箱を見つめる。
そこにある小さな種だけを。
長い時間。
由良は、動かなかった。
――失ったものは、戻らない。
そのことだけが。
静かな夜の中で、何度も胸に残った。




