(13)――帰る場所
(視点:由良)
その日は、森から戻るのが遅くなった。
空はすでに暗くなり始めている。
木々の間から見える空が、青から深い藍色へ変わっていた。
「……遅くなりましたね」
由良が言う。
隣を歩いていた理永が、空を見上げる。
「そうね」
「急ぎますか?」
「ううん」
理永は首を振った。
「もう暗いし、慌てても仕方ないわ」
「そうですか」
二人はそのまま、ゆっくり歩き。
小屋へ戻る頃には、完全に夜になっていた。
扉を開ける。
中は暗い。
理永が明かりを灯すと柔らかな光が、部屋を照らした。
「今日は、遅くなったわね」
「ええ」
由良は荷物を置く。
いつもなら、ここで帰るのだが。
外を見ると、森はもう暗い。
「……」
理永も、その視線に気づいた。
「泊まっていく?」
由良が振り返る。
「……いいんですか?」
「こんな時間に帰るより、その方がいいでしょう」
少し考えてから。
「では……お言葉に甘えます」
「ええ」
それだけだった。
けれど。
その夜からだった。
由良が、理永の小屋に泊まるようになったのは。
最初の夜は、少しだけ落ち着かなかった。
小屋の中には、いつもの静けさがある。
いつもなら、夜になれば自分は街へ戻る。
それが今日は違う。
「寝る場所は、ここを使って」
理永が、小さな寝具を用意する。
「ありがとうございます」
「狭いけど」
「十分です」
由良はそう答える。
理永は少し笑った。
「なら、よかった」
それから。
それぞれの場所へ向かう。
同じ屋根の下。
ただ、それだけなのに。
なぜか、少しだけ不思議な感じがした。
真夜中。
由良は目を覚ました。
静かだった。
窓の外では、風が木々を揺らしている。
由良はしばらく天井を見ていた。
眠れない。
けれど。
嫌な感じはしなかった。
むしろ。
この静けさが、心地よかった。
隣の部屋から、微かな寝息が聞こえる。
理永が眠っている。
それを知るだけで、なぜか安心した。
由良は目を閉じる。
しばらくして、自然に眠りへ落ちていった。
翌朝。
目を覚ますと、窓から朝の光が差し込んでいた。
「おはようございます」
声がする。
由良が顔を上げる。
理永が、湯気の立つカップを持って立っていた。
「おはようございます」
「眠れた?」
「ええ」
「ならよかった」
理永はカップを机に置く。
「紅茶、淹れたわ」
「ありがとうございます」
受け取る。
温かい。
香りが広がる。
由良は一口飲んだ。
「……美味しいです」
「昨日遅かったから、少し濃いめにしたの」
「なるほど」
そんな会話をする。
幸せな朝のひと時
由良はふと思った。
――朝、この人の声を聞く。
それも悪くない。
それからも。
由良が理永の小屋に泊まることは、少しずつ増えていった。
森から戻るのが遅くなった日。
研究が長引いた日。
雨が降った日。
理由はいくらでもあった。
「今日も泊まっていきますか?」
理永がそう尋ねることもあった。
「……では、お願いします」
由良も、自然に答えるようになった。
最初は「泊まっていいですか」と確認していた。
いつの間にか。
確認する必要すらなくなっていた。
夜になれば、ここにいて。
朝になれば、理永と紅茶を飲む。
それが少しずつ、当たり前になっていった。
ある雨の日。
二人は小屋の中で過ごしていた。
外では雨が降り続いている。
森へ行くこともできない。
理永は机に向かっている。
由良は、その向かいで本を読んでいた。
雨音だけが、静かに響く。
「……由良」
「はい」
「これ、見てもらえる?」
理永が紙を差し出す。
由良は本を閉じる。
隣へ移動する。
肩が触れそうな距離。
二人で式を見る。
「ここを変えると――」
「そうね」
理永が書き直す。
しばらくして。
「……できた」
小さく笑う。
由良も笑う。
外は雨。
けれど。
小屋の中は、穏やかだった。
由良は窓を見る。
雨に濡れた森を眺め、ふと思う。
こんな日も悪くない。
外へ行かなくても。
何か特別なことをしなくても。
ただ、ここで理永と過ごしている。
それだけで十分だった。
夜。
雨はまだ止んでいなかった。
理永は本を読んでいる。
由良は少し離れた場所に座っていた。
「……眠くないんですか?」
「少し」
「今日は早く休みましょう」
「そうね」
理永が本を閉じる。
立ち上がろうとした時。
ふと、窓の外へ目を向ける。
由良も同じ方向を見る。
森の向こう。
何かがいる。
――ほんの一瞬。
そんな気がした。
由良は目を細める。
けれど。
既に、何も見えない。
気配も、もうない。
「どうしたの?」
理永が尋ねる。
「……いえ」
由良は窓から視線を戻す。
「何でもありません」
理永は少し首を傾げた。
けれど、それ以上は聞かなかった。
「じゃあ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
理永が部屋へ戻っていく。
由良も自分の場所へ向かう。
けれど。
さっき感じたものが、頭から離れなかった。
――気のせいだ。
そう思いたかった。
以前にも、似た気配を感じたことはある。
あの存在。
アストラル。
今夜は、姿を見せなかった。
ただ。
遠くから見られているような。
そんな感覚だけが残っていた。
深夜。
由良は、もう一度目を覚ました。
雨は止んでいた。
静かな夜。
由良は窓の外を見る。
月明かりが森を照らしている。
何もいない。
けれど。
――見られている。
確かに、そう感じた。
由良は窓辺へ近づく。
森の奥を見る。
「……」
気配はない。
それでも。
何かが、こちらを観測している。
由良は、しばらく動かなかった。
やがて。
視線を感じる場所から、ゆっくり目を逸らす。
理永を起こす必要はない。
今はまだ。
何も起きていない。
由良は窓を閉める。
そして。
眠っている理永のいる方へ目を向ける。
静かな寝息。
穏やかな顔。
何も知らずに眠っている。
由良は、その姿をしばらく見つめていた。
胸の奥に、言葉にならないものが生まれる。
――この人の眠りを、邪魔させたくない。
それだけだった。
翌朝。
何事もなかったように、朝が来た。
理永はいつものように紅茶を淹れている。
「おはよう」
「おはようございます」
「よく眠れた?」
「ええ」
嘘ではなかった。
由良は理永を見る。
いつもと変わらない。
笑っている。
それだけで安心する。
「今日はどうします?」
「昨日の続きね」
「分かりました」
二人で机へ向かう。
紙を広げ、ペンを取る。
いつもの時間。
けれど。
由良の中には、昨夜の感覚が残っていた。
アストラル。
あの存在が、また近づいている。
それでも。
今は何も起きていない。
ならば。
この時間を守ればいい。
そう思った。
夕方。
理永が外へ出ると、由良も続く。
二人で小屋の前に立つ。
「明日は晴れるでしょうか」
「たぶん」
「なら、森の奥まで行きましょう」
「ええ」
理永が笑う。
由良も笑う。
そして。
水桶を手に、小屋へ戻る。
扉が閉まる。
その瞬間。
由良は、ふと思った。
ここへ帰ってくる。
理永と一緒に。
それが、もう当たり前になっている。
街へ戻るより。
この場所へ戻る方が、自然になっていた。
――ここが、自分の帰る場所なのかもしれない。
そんな考えが浮かぶ。
由良は、少しだけ目を伏せた。
まだ。
それを口にすることはなかった。
ただ。
その夜も。
由良は理永の小屋で眠った。
外では、月が静かに森を照らしていた。
そして。
森のさらに奥。
誰にも見えない場所から。
何かが、静かにこちらを見ていた。




