星の閑話VII|落ちてなお進む
(カストル視点)
落ちた、という感覚はなかった。
気づいたときには、すでに下にいた。
煉獄。
名で呼ぶなら、そうなる場所。
空はない。
地平もない。
ただ、下へ下へと沈殿したものが、層になって積み重なっている。
足元を踏みしめるたび、柔らかく、鈍い感触が返ってくる。
土ではない。
岩でもない。
魂だ。
形を失い、循環から外れ、どこにも行けなくなったもの。
祈られすぎて、縋られすぎて、燃え尽きた残滓。
呼吸をするたび、喉が軋む。
空気に混じるのは、恐怖と後悔と、名を失った願いだ。
魔物が湧く理由が、分かる気がした。
ここでは、怒りも嘆きも、すべてが形を得る。
守るものを失った感情は、容易く牙になる。
それでも、進む。
上を目指す、というより――
ここに留まらないという選択を、足が覚えている。
這い上がる途中、気配に触れた。
重い。
濁っている。
だが、狂ってはいない。
封じられた存在。
動かず、叫ばず、ただ在り続ける“何か”。
アストラル。
ぞわり、と背筋を嫌悪が走る。
敵意ではない。
恐怖でもない。
――違和感だ。
ここに“在ってはいけないもの”が、在る。
それだけで、煉獄の均衡が歪む。
魔物たちが、その周囲を避けている理由も理解できた。
あれは喰えない。
壊せない。
触れてしまえば、自分が何者か分からなくなる。
視線を逸らし、進む。
目的は、別にある。
途中、祈りが崩れ落ちてくる。
光になりきれなかった魂が、雨のように降る。
一つ、二つ――
数えるのはやめた。
数は、ここでは意味を持たない。
意味を持つのは、量だ。
落ちてくる魂が、あまりにも多い。
流れが、滞っている。
循環が、追いついていない。
「……ひどいな」
声に出した途端、喉が焼けた。
ここで言葉は、重すぎる。
それでも、進む。
足を引く手がある。
引きずり込もうとする影がある。
名前を呼ぶ声も、もう聞こえない。
それらを振り切る理由は、ただ一つ。
――まだ、終わっていない。
煉獄の奥。
魂が溜まり、魔物が避け、封印された存在すら沈む場所。
そこに、在り続ける光がある。
弱く、けれど確かに。
祈っても足りず、救っても追いつかず、
それでも、ここを離れない存在。
カストルは、息を吐いた。
「……あんたか」
名を呼ばずとも、分かる。
煉獄の底で、なお立ち続ける者。
星を抱き、魂を受け止め、崩れぬよう踏みとどまる存在。
落ちてなお進む理由が、そこでようやく形を得た。
ここは地獄だ。
だが――
まだ、誰かが耐えている
ならば、自分も進むしかない。
這い上がるために。
辿り着くために。
煉獄の底で、足を止めないために。
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愛されて育った少年がいた。
それは事実で、否定しようもない。
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落ちてきた者が見たのは、救いではない。
ただ、確かに存在していた時間だった。
誰かが名を呼び、誰かが笑い、
失われるとは思いもしなかった日々。
それは、
愛されていたという事実だけが残る記憶だった。
それは事実で、否定しようもない。
同じ血を分けた兄弟であったとしても、
与えられた時間は、同じではなかった。
まだ生まれてもいなかった子を囲んで、
世界は、何事もなかったかのように息をしていた。




