(1)眷属になってからの日常
主視点:紫苑
紫苑が再び目を開いたとき、
そこにあったのは――世界だった。
土の匂い。
人の声。
風の重さ。
死んだはずの身体は、確かに“ある”形をしていた。
人と同じ姿で、けれど人ではないものとして。
「動ける?」
そう声をかけてきたのは、リエルだった。
あの境界で会ったときと同じ、少し気の抜けた調子で。
「……ええ」
返事をしてから、紫苑は気づいた。
声が震えていない。
恐怖も、混乱も、
不思議なほど遠かった。
「よし。じゃあまずは――」
リエルは指を折りながら言った。
「身分、仕事、居場所。
世界で生きるには、この三つが要る」
その言い方は、神のそれではない。
どこか、世話焼きな年上の少女のようだった。
こうして紫苑は、人間に扮した眷属として
情報ギルドの副ギルドマスターになった。
表向きのギルドマスターはリエル。
ただし彼女は――
「今日はルミナス様が神殿にいらっしゃるらしくて……!」
バタバタと騒がしくそう言い残して、うちわとペンライトを片手に
朝から晩まで姿を消すことも珍しくなかった。
紫苑は、慣れた。
書類を整理し、依頼を精査する、人の話を聞き、嘘と真実を仕分ける。
不思議なことに、その日々は――
生前より、ずっと穏やかだった。
誰かに命を差し出すこともない。
数として扱われることもない。
名前を呼ばれ、意見を聞かれ、
「ありがとう」と言われる。
人に扮しているだけのはずなのに、
そこには、生前にはなかった
人としての喜びがあった。
失敗もした。
怒られもした。
それでも、次の日はまた来た。
紫苑は学んだ。
世界は、守るだけのものではない。
関わることで、変わるのだと。
やがてリエルは、
本格的に“神”としての道を選び、
陽の光を受けて、龍鱗がキラキラと反射しながら
天界へと登っていった。
別れは、あっけなかった。
「留守、お願いね~!」
それだけ言って
振り返りもせずに。
紫苑は、その背を見送った。
――そして気づく。
日常は、ほとんど変わらなかった。
朝は来て、
仕事は溜まり、
人は悩み、
世界は動き続ける。
違うのはただひとつ。
紫苑の中に、
少しずつ“重さ”が溜まり始めていること。
それが何なのか、
この時はまだ、言葉にできなかった。
ただ――
生きている、という実感だけは、確かだった。
この日々が、
やがて「一億」という数字に形を変えることを、
紫苑は、まだ知らなかった。




