(3)静かな違和感
風の流れが、少しだけ変わった気がした。
森を抜けた先。
人間たちの街道。
行き交う足音。
荷車の軋む音。
知らない匂い。
理永は、わずかに目を細めた。
「人が多いわね」
「だから面白いのよ」
隣でベラトリスが笑う。
理永は小さく息をついた。
この賑やかさには、まだ慣れない。
けれど――嫌いではなかった。
視線を巡らせる。
人間たち。
それぞれの目的を持って動いている。
無秩序のようでいて、どこか整っている流れ。
「……」
その中で。
一箇所だけ、違って見えた。
「……?」
街道の端。
木陰。
そこだけが、妙に静かだった。
音が遠い。
人の流れから切り離されたような場所。
――誰かいる。
理永は無意識に足を止めていた。
「どうしたの?」
ベラトリスが振り返る。
理永は答えず、その方向を見る。
そして。
黒い外套の男が、そこに立っていた。
「……」
目が合ったその瞬間。
ほんのわずかに――
空気が澄んだ気がした。
不思議だった。
魔力ではない。
圧でもない。
けれど確かに“何か”がある。
理永は観察するように男を見る。
輪郭。
立ち方。
呼吸。
どれも自然なのに、どこかだけ違う。
「……人間?」
小さく呟く。
だが確信は持てない。
その時。
ベラトリスが一歩前に出た。
「魔女か……」
男が先に口を開く。
低い声。
理永はわずかに眉を寄せる。
“気づかれている”
それは当然のことなのに、
なぜか少しだけ引っかかった。
「そうよ」
ベラトリスが答える。
理永は一歩、ベラトリスの後ろに下がる。
前に出る理由は、特に無かった。
男は静かにこちらを見ている。
その視線は鋭くない。
むしろ穏やか――
「……」
そしてなぜか、落ち着いた。
理永は、ほんの少しだけ視線を逸らした。
見続ける。
もう少し観察する。
そう判断しかけて――やめた。
(……今は、いい)
理由は分からない。
けれど、“今ではない”とだけ思った。
「珍しいですね」
男が言う。
「こんなところで魔女に会うのは」
「そっちこそ」
ベラトリスが笑う。
二人の会話が始まる。
理永は一歩引いた位置で聞いていた。
言葉のやり取り。
声の調子。
間の取り方。
違和感は消えない。
けれど――
不快ではない。
むしろ。
(……静か)
ぽつりと、心の中でそう思った。
街道は騒がしいはずなのに。
この男の周りだけ、
音が遠くなる。
思考が、静まる。
それがどういうことなのか、
理永にはまだ分からなかった。
ただ。
視線が、もう一度だけ向く。
男の横顔。
その瞬間。
ベラトリスが、少しだけ笑った。
楽しそうに。
理永はその様子を見て、
小さく息を吐く。
「……」
良かった、と思った。
ベラトリスが楽しそうなら、それでいい。
そう思った。
ほんのわずかに――
胸の奥に、何かが残る。
言葉に出来ない、引っかかり。
理永は、その違和感を手放さなかった。
(……何?)
形にはならない。
言葉にもならない。
けれど――
確かに、そこにある。
理由は分からないまま、
その感覚だけを、静かに残した。
「名前は?」
ベラトリスが聞く。
男は少しだけ間を置いた。
「由良」
短く答える。
理永はその名前を、頭の中でなぞった。
「……由良」
響きだけを確かめる。
なぜか、その名は少しだけ記憶に残った。
風が吹く。
木々が揺れる。
街道の音が戻ってくる。
理永はゆっくりと視線を外した。
――ひとまず、いい。
そう結論づける。
観察は足りていない。
分類も、まだ曖昧だ。
けれど――
今すぐ答えを出す必要はない。
観察は十分した。
危険性は低い。
分類すれば、“無害な旅人”。
それで終わるはずだった。
なのに。
「……また来るかもしれない」
なぜか、そう思った。
理由は分からない。
必要性もない。
それでも、その考えは自然に浮かんだ。
――理由は、分からないままだった
「……気のせい」
(ではないわね)
小さく呟く。
ただ――
それが何なのかは、まだ分からない。
分からないまま、
その感覚だけを残した。
その違和感は――
消えることなく、残ったまま。
形にならないまま、
何度も思い出されることになる。
―――――――――――――――――――
(視点︰由良)
風が、静かに流れる街道の端。
人の往来からわずかに外れた場所。
木陰。由良は、いつものようにそこに立っていた。
行き交う人間たち。
交わされる言葉。
規則的で、どこか単調な流れ。
それらを、ただ眺めている。
理由はない。
強いて言えば――
「……」
視線が、自然と動いた。
魔女が二人。
魔女が出歩くのは珍しい。
一人はよく笑う。
表情が豊かで、言葉も軽やかだ。
距離を詰めるのが早い。
「魔女か……」
声をかけたのは、ただの流れだった。
返ってくる言葉。
軽い応答。
他愛のない会話。
「……」
もう一人。
少し後ろに立っている少女。
静かだった。
周囲の音が、わずかに遠のく。
風の流れが変わるわけでもない。
何かが起きているわけでもない。
ただ――
「……」
余計なものが、落ちていく。
思考の端に引っかかっていたもの。
視界のざらつき。
言葉にするほどでもない、微細な違和感。
それらが、自然に消えていく。
理由は分からない。
ただ、そうなっている。
「珍しいですね」
言葉を返す。
視線は一度、前に戻る。
会話は続く。
流れに問題はない。
だが――
「……」
気づくと、もう一度見ていた。
少女の方を。
理由はない、必要もない。
それなのに。
視線は、そちらへ向いていた。
「……人間?」
小さな声が届く。
分析している。
分類しようとしている。
その過程が、妙に自然だった。
由良はわずかに目を細める。
「……」
視線が合う。
ほんの一瞬。
――静かだ。
それだけが、残る。
感情ではない。
興味とも違う。
「名前は?」
問いが投げられる。
少しだけ間を置く。
答える必要はない。
名乗る理由もない。
それでも。
「由良」
口にしていた。
短く、それだけ。
意味はない。
はずだった。
「……由良」
少女がその名をなぞる。
確認するように。
覚える必要はないはずのものを。
「……」
その音が、わずかに残る。
なぜかは分からない。
思考の中に、引っかかる。
すぐに消える程度のもののはずなのに。
完全には消えない。
風が吹く。
木々が揺れる。
街道の音が戻る。
本来の流れ。
それで十分なはずだった。
「……」
視線を外す。
会話は続く。
もう一人の魔女が笑っている。
問題はない。
すべて、いつも通りだ。
それでも。
ほんのわずかに。
――残る。
理由のない、何かがあった。
由良はその感情を追わなかった。
必要がないと判断した。
意味もない。
結論も出ない。
だから。
そのまま、放置した。
「……」
ただ一つ。
確かなことがあるとすれば。
視線はもう、迷わなかった。
次に向く場所が――
どちらなのかを。
考えるまでもなく、理解していた。




