(1)祝福
静かだった。
風の音も、木々のざわめきも、 どこか遠くにあるみたいに、現実感が薄い。
「……どうして」
その声だけが、やけに鮮明に響いた。
理永は、自分の手を見ていた。
指先が、赤く濡れている。
ぽたり、と。 血が落ちる。
「……え?」
理解が、追いつかない。
痛みは、ない。
傷ついた覚えもない。
それなのに、 血だけが、静かに流れている。
「……どうして」
もう一度、同じ言葉が零れる。
その時だった。
「理永――!」
声が重なる。
由良と、ベラトリス。
二人が同時に駆け寄る気配。
けれど。
間に合わない。
「……っ」
体が、ふらつく。
力が抜ける。
支えようとする手が届くよりも先に―― 理永の膝が崩れた。
地面に倒れる。
空が、視界いっぱいに広がる。
どこまでも静かで、 どこまでも遠い。
「……あ」
小さく、息が漏れる。
そのまま。 動けない。
胸の奥が、ゆっくりと冷えていく。
涙が、一筋だけ流れた。
理由は、分からないまま。
ただ――
(……ああ)
何かが、ほどける。
指先からこぼれた血が、 光を帯びる。
淡く、 揺れて。
それは、形を持ち始める。
小さな、何か。
光とも、影ともつかない。 不安定なまま、そこに在る。
「理永っ」
由良の声が、かすれる。
手を伸ばす。
けれど――
その前に。
「理永!」
抱き起こし。
呼吸を確かめる。
「……っ」
止まっている。
「おいっ……嘘だろ」
声が、崩れる。
血が滲む理永を揺する。
何度呼んでも、 反応は返ってこない。
「……理永、理永っ」
もう一度、名前を呼ぶ。
それでも。
何も、戻ってはこない。
何が起きたのか、分からない。
ただ――
「……間に合わなかった」
低く、零れる。
理永の様子がおかしいことには、気づいていた。
それでも。
止められなかった。
静寂だけが、 そこに残る。
「……っ」
由良の手が、強く震える。
次の瞬間。
すっと、立ち上がる。
迷いは、なかった。
「……由良?」
ベラトリスが気づく。
その目を見た瞬間―― 全てを理解する。
「待ちなさい」
低く、言う。
止まらない。
「やめなさい」
今度は、強く。
それでも、 由良は止まらない。
「――触るな」
振り払おうとする。
由良に迷いはなかった。
その動きは、 あまりにもはっきりしていた。
“後を追う”ためのものだった。
「……っ」
ベラトリスが、腕を掴む。
強く。
逃がさないように。
「離せ」
低い声。
感情が、削ぎ落ちている。
それが一番、危険だった。
「離さない」
即答する。
「離したら、あんた死ぬ気でしょ」
由良は、答えない。
ただ、振りほどこうとする。
「……っ、ふざけないで」
声が、わずかに揺れる。
それでも、手は離さない。
「こんなことで終わらせる気?」
言葉が、荒くなる。
「何も分かってないのに」
由良の動きが、止まる。
ほんの一瞬だけ。
「……分かってる」
低く、零れる。
「……間に合わなかった」
その声には、確信しかなかった。
「だから――」
続けようとする。
その瞬間。
「ダメよ」
遮る。
強く。
「それだけは、ダメ」
引き寄せる。
無理やりでも、止める。
「死んで終わるなら、何の意味もないでしょ」
息が荒い。
自分でも分かるくらい、冷静じゃない。
それでも。
離さない。
「……」
沈黙が落ちる。
由良の力が、わずかに抜ける。
完全じゃない。
それでも――止まった。
「……っ」
ベラトリスは、息を吐く。
そのまま、視線を落とす。
地面に落ちた。
まだ、残っている。
光。
不安定なまま、揺れる“それ”。
「……何、これ」
小さく、呟く。
答えは、ない。
ただ。
それは確かに―― そこに在った。
理永が、残したものだった。
意味も分からないまま。
静かに。
確かに。
そこに、存在していた。




