(1)静かな観察
灰の魔女の住処は、朝になると決まって静かだった。
山の奥にある小さな石造りの家。窓の外では、朝露を含んだ草が風に揺れている。
少女はその窓辺に立ち、両手の中で小さな炎を揺らしていた。
指先ほどの金色の火。
ゆらゆらと揺れるそれを、少女はじっと見つめる。
炎は生き物のように形を変える。
わずかな魔力の流れ、呼吸の乱れ、意識の揺れ。
それらすべてが、火の形に現れていた。
少女は目を細める。
次の瞬間、炎がふっと大きく揺れた。
ぱち、と乾いた音。
火が弾け、少女の手から消える。
ほんの小さな暴発だった。
けれど少女は驚かなかった。
ただ静かに息を吐き、机の上に置いてある紙を引き寄せる。
炭の筆を取り、何かを書き込んだ。
魔力の流れ。
術式の組み方。
火が揺れた瞬間の感覚。
短い言葉で、丁寧に記していく。
足音が近づいた。
振り向くと、灰色のローブを羽織った女が戸口に立っている。
灰の魔女ベラトリスだった。
「……朝から研究かい」
少女は小さく頷く。
「さっきより、火が大きく揺れました」
「見ていたよ」
ベラトリスは部屋の中へ入り、机の上の紙をちらりと見た。
「記録をつけているのか」
少女は少しだけ首を傾げる。
「……書いた方が、分かるので」
ベラトリスは黙った。
紙には整った文字が並んでいる。
炎の大きさ、魔力の量、制御の感覚。
子供の書いたものとは思えないほど、冷静な記録だった。
「天才だからじゃない」
ベラトリスはぽつりと言った。
「魔法は、ほとんどが失敗で出来ている」
少女は顔を上げる。
ベラトリスは窓の外を見ていた。
「火はね、気まぐれなんだ。人間の思う通りには動かないよ」
少女は少し考え、また紙に何か書いた。
「……気まぐれ」
小さく呟く。
「それも書くのかい」
少女は頷く。
「理由があると思うので」
ベラトリスは思わず笑いそうになり、しかし顔には出さなかった。
「理由、ね」
少女は紙を置き、もう一度手を掲げた。
指先に魔力を集める。
呼吸を整える。
意識を火の形へ集中させる。
ぱち、と小さな音。
再び金色の炎が生まれた。
今度は さっきほど揺れない。
ゆっくりと、穏やかに燃えている。
少女はその炎をじっと見つめていた。
嬉しそうでも、自慢げでもない。
ただ、観察している。
ほんのわずかな変化も見逃さないように。
少女は炎を見つめたまま、少し考える。
それから立ち上がり、窓の外へ出た。
塔の裏手には、古い丸太が置かれている。
魔法の練習用の的だ。
少女はその前に立つ。
手を掲げる。
金の炎が揺れる。
「……攻撃」
小さく呟く。
魔力を前へ流す、炎は丸太に向かって飛んだ。
火は当たったけれど――
燃えない。
炎は弾けるように広がり、丸太の表面を包む。
次の瞬間。
焦げたはずの木肌が、ゆっくりと元に戻った。
少女は瞬きをする。
「……?」
もう一度やる。
今度は強く。
炎が広がる。
それでも結果は同じだった。
壊れない。
燃えない。
むしろ――
削れていた木肌が、少しだけ滑らかになっていた。
少女は、少しだけ綺麗になった丸太を見つめる。
……攻撃にならない
しばらくしてベラトリスが言った。
「今日はそこまでだ」
少女は顔を上げた。
「……もう少し」
ベラトリスは眉を動かす。
「まだやるのかい」
少女は静かに言った。
「分かるまで、やめたくないです」
強い声ではない。
けれど、はっきりしていた。
ベラトリスはしばらく少女を見ていた。
細い体。
まだ幼い手。
だがその目は、少しも揺れていない。
「……頑固だね」
少女はきょとんとした顔をする。
「そうですか?」
ベラトリスは小さく息を吐いた。
「ああ。かなりね」
少女は少しだけ笑った。
そのまま、また炎を見つめる。
金色の火は静かに揺れていた。
ベラトリスは窓の外へ視線を向ける。
山の朝は冷たい、遠くで鳥が鳴いている。
背後では、少女がまた紙に何かを書き込んでいた。
失敗の記録。
魔力の感覚。
炎の形。
ベラトリスは裏手の丸太をちらりと見た。
焦げ跡が、ほとんど残っていない。
ベラトリスは思う。
あの子は天才ではない。
だが――諦めない子だ。
そしてそれは、時に才能より厄介なものだ。
少女は再び手を掲げる。
小さな炎が生まれる。
今度は少しだけ安定していた。
少女はふっと笑う。
「……さっきより、揺れない」
その声はとても静かで、けれど確かに嬉しそうだった。
ベラトリスは振り向かないまま呟く。
「そうかい」
そして心の中でだけ、こう続けた。
――優しい子だ。
けれどその優しさが、いつかどこへ向かうのか。
灰の魔女には、まだ分からなかった。




