(2)間に合わなかった
担架が地面に下ろされる。
白いシートが広がる音が、やけに乾いて聞こえた。
「離れてください」
誰かが言う。
由良は、理永の手を握ったまま動かない。
赤い。
指先に残った血が、もう少しだけ濃くなっている気がする。
乾き始めているのかもしれない。
「危ないので、下がってください」
腕に触れられる。
その瞬間、由良はようやく力を抜いた。
理永の手が、するりと自分の掌から外れる。
軽い。
あまりにも、軽い。
担架に乗せられた身体は、布で半分ほど覆われる。
顔はまだ見えている。
目は閉じられた。
誰かが確認するように、首元に触れる。
首を振る。
小さな動作だった。
けれど、それで十分だった。
終わりの合図。
由良は立ち上がれない。
膝が、地面に貼りついている。
視界の端で、車の運転手が青ざめた顔で立ち尽くしている。
周囲には、輪ができている。
ざわめき。囁き。
遠巻きの視線。
すべてが膜の向こうの出来事みたいに、音が鈍い。
赤信号が、再び灯る。
その色が、担架の白を染める。
冷たい赤。
さっきまで温かかった血も、もう体温を失っていく。
由良は自分の掌を見る。
理永の血が、線の間に入り込んでいる。
拭えば消えるはずだ。
水で流せば落ちる。
でも、指を閉じる。
そのまま、握り締める。
消したくないと思ったのか、消えるのが怖いのか、自分でも分からない。
吸血鬼は、死体を起こせない。
その事実が、頭の奥で何度も反芻される。
もし、あと一秒早ければ。
もし、腕を掴んでいれば。
もし、あのとき引き止めていれば。
仮定ばかりが浮かぶ。
でも、現実は一つだ。
理永は、戻らない。
担架が持ち上げられる。
由良の身体が、ようやく反応する。
立ち上がる。
震える足で、追いかけようとする。
でも、止まる。
既に何をしても戻らない。
もう分かっていた。
救急車の後部ドアが開く。
白い内側が見える。
理永の手が、シートの外にわずかに出たまま揺れる。
その赤が、最後に目に焼き付く。
ドアが閉まる。
音が、重い。
サイレンが鳴る。
音はどんどん遠ざかって、やがて聴こえなくなった。
夕方の光が、完全に落ちていく。
ざわめきはゆっくり解け、
人々は日常へ戻る。
誰かが小さく言う。
「事故だって」
事故。
その言葉が、空気の中で乾く。
由良は立ったまま、動かない。
掌の中の赤だけが、まだ鮮やかだ。
それが、証明のように残っている。
間に合わなかった。
過去形が、はっきりと胸に落ちる。
冷たい夜風が吹く。
血は、もう冷えている。
それでも、由良は指を開かない。
まるで、
まだ掴んでいるかのように。
そこにはもう、何もないのに。




