(1)間に合わない
第38章|『赤い手』
(1)間に合わない
衝撃のあと、理永の身体は数メートル先で止まった。
アスファルトに、赤が落ちる。
手のひらが擦れている。 指先が裂け、じわりと血が広がる。
夕方の光の中で、その赤は妙に鮮やかだった。
「理永!」
由良は駆け寄る。
膝をつき、肩に触れる。
温かい。
「理永、聞こえるか」
揺らす。
反応がない。
頬に血が流れている。 額も裂けている。 でも、それ以上に。
静かすぎる。
手首に触れ、脈を探す。
ない。
位置を変える。押し当てる。
ない。
胸に耳を近づける。
――動いていない。
呼吸もない。
周囲がざわめく。
「誰か、先生呼んで!」
「救急車!」
足音が走る。
由良の視界は、理永だけを捉えている。
即死。
その可能性が、冷たい形で浮かぶ。
「……いやだ」
否定するように、理永の指を握る。
そのとき。
かすかに、動いた気がした。
由良の瞳が揺れる。
まだ、間に合う。
血を与えれば。
境界の内側に引き戻せば。
理永を自分と同じ側へ引きずりこめば。
由良は自分の手首を口元へ引き寄せる。
牙を立てる寸前で、止まる。
理永の瞳は、何も映していない。
焦点がない。
意識が、ない。
これは生きていない
終わっている。
吸血は、生きている者にしか作用しない。
死体は、ただの死体だ。
血を流し込んでも、戻らない。
理解が、骨まで冷やす。
間に合わなかった。
さっきの“動き”は、ただの反射だ。
もう、いない。
由良の手が震える。
「理永」
声が、崩れる。
赤い手が、開いたまま。
掴もうとした形のまま。
夕陽が沈む。
救急車のサイレンが近づく。
遅い。
全部、遅い。
由良は、ようやく理解する。
本当に。戻らない。
信号が赤に変わる。
冷たい赤色が、二人を照らしていた。




