(2)目撃のズレ
放課後の教室は、昼間よりも少しだけ温度が落ちていた。
窓から差し込む光が斜めに伸び、机の角を白く縁取っている。
理永は窓際でノートをまとめながら、意識の半分を外に置いていた。
キャンパスの風景は変わらない。
笑い声も、椅子を引く音も、日常の範囲内だ。
それなのに、自分だけがわずかに遅れている。
背後で声がした。
「由良くん、ちょっと相談いい?」
聞き慣れた響きに、肩がわずかに強張る。
――いつものこと。
由良がモテるのは、珍しくもない。
ゼミでも講義でも、就活の情報交換でも、誰かしらが彼に声をかける。
理永はそれを、特別なことだと思ったことはなかった。
むしろ、納得している側だった。
距離の取り方が上手い。
相手を安心させる声をしている。
必要以上に踏み込まない。
だから信頼される。
由良が立ち上がる気配がする。
「どうした?」
落ち着いた声。
女子が資料を差し出し、説明を求める。
由良は覗き込み、少しだけ体を傾ける。
距離は保っている。
触れない。近づきすぎない。
線は守られている。
――分かってる。
頭では、ちゃんと理解している。
それでも。
胸の奥が、静かにざわついた。
理永はペンを持つ手を止める。
呼吸が、ほんの少し浅い。
怒りではない。
明確な嫉妬でもない。
ただ、感覚の処理が追いつかない。
女子が笑う。
由良も短く応じる。
そのやり取りの空気が、皮膚をかすめる。
以前なら、流せた。
今は、拾ってしまう。
相手の好意の温度。
由良の無自覚な余裕。
教室の視線の流れ。
全部が、輪郭ごと入り込んでくる。
――拾いすぎてる。
理永は自分で分かっている。
最近、感情の境界が薄い。
あの夜から、何かが混ざっている。
石畳の冷たさ。
乾いた風。
背後からの視線。
遠いはずの感触が、現実と重なる。
今の自分は、消耗している。
面接で削られ、
他人の緊張や期待を拾いすぎ、
処理する余力が残っていない。
普段なら、これは「いつもの光景」で終わる。
なのに今日は、違う。
由良が女子に資料を返しながら言う。
「この部分だけ直せば大丈夫だと思うよ」
柔らかい声。
理永の胸が、ひとつ強く鳴る。
――何で。
理由は明確じゃない。
奪われる、という感覚でもない。
所有しているわけでもない。
ただ、均衡が揺れる。
自分の内側だけが、少し傾く。
理永は視線を向ける。
ほんの一瞬だけ。
女子の表情は明るい。
由良は穏やかだ。
何もおかしくない。
それなのに、胸の奥で小さな違和感が広がる。
――冷静じゃない。
そう分かっている。
疲れているだけだ。
消耗しているだけだ。
今の自分は、判断が鈍っている。
それでも視線が外れない。
見ていたことに気づかれたくなくて、
理永は慌ててノートを閉じた。
音が、わずかに大きい。
由良が一瞬だけこちらを見る。
視線が、かすめる。
心臓が強く打つ。
すぐに逸らす。
――言えない。
さっき建物の前で決めたはずの言葉が、胸の奥で揺らぐ。
相談したら、楽になるかもしれない。
でも、今のこの感情まで見透かされる気がする。
それが怖い。
女子が席を離れ、由良は椅子に戻る。
教室はまた、いつもの音に戻る。
理永は深く息を吐く。
ざわめきは残っている。
でも、それを否定する気にもなれなかった。
――普段の私なら、こんなふうにはならない。
それだけが、はっきりしていた。




