(1)消耗
朝から二件。午後に一件。
スーツのジャケットを脱いだとき、肩の奥に鈍い痛みが残っているのに気づいた。
理永は駅ビルのトイレで立ち止まり、鏡の中の自分を見る。
表情は整っている。
声も、受け答えも、破綻はなかったはずだ。
――問題は、なかった。
面接官が言葉を選んだ一瞬の間。
視線がわずかに逸れた瞬間。
評価を保留にした沈黙。
全部、拾ってしまう。
以前は、ここまで鮮明じゃなかった。
今は、相手の逡巡が皮膚に触れるみたいに伝わる。
わかりすぎる。
それが正確かどうかは分からない。
けれど、自分の中に流れ込んでくる情報の量が、明らかに増えている。
あの夜からだ。
石畳の硬さ。
乾いた風。
背後から射抜くような視線。
夢にしては、感触が残りすぎている。
自分の奥に、別の時間の層がある。
それが、静かに重なっている感覚。
以前の自分より、深いところまで沈める。
その代わり、境界が薄い。
面接官の緊張も、
隣の学生の焦燥も、
場の空気の重さも。
輪郭ごと、流れ込んでくる。
帰宅すると、何もしていないのに消耗している。
横になっても、神経だけが冴えている。
大学に行く余力は、正直あまりない。
ゼミの連絡は確認している。
提出物も出している。
やるべきことは、落としていない。
けれど、キャンパスに足を運ぶのは億劫だった。
人が多い場所は、今の自分には負荷が強い。
――少し休めば、戻る。
そう思って、数日が過ぎた。
だが、対面で処理しなければならない手続きができる。
仕方なく、大学へ向かった。
改札を抜け、キャンパスの門をくぐる。
ざわめきが、以前より重い。
自分の輪郭が、わずかに薄い。
足取りは普通のはずなのに、
どこか水の中を歩いているような感覚。
――ちゃんと、ここにいる。
意識しないと、足元が曖昧になる。
建物の前で立ち止まり、深く息を吸う。
冷たい空気が肺に入る。
そのとき。
視界の先に、見慣れた背中があった。
一瞬、思考が止まる。
肩の力が抜けるような安堵と、
同時に、喉の奥がひりつくような緊張。
由良だ。
その背中を見た瞬間、
胸の奥で何かが強く揺れた。
さっきまで感じていた重さとは、違う。
けれど、言葉にできる種類のものでもない。
――言えば、きっと気づかれる。
自分の反応の遅れも、
記憶の曖昧さも、
ときどき自分の輪郭が薄くなる感覚も。
由良はたぶん、もう半分は察している。
だからこそ。言えない。
「最近ちょっと変だよ」と言われた声が蘇る。
あの視線。
あの、見抜くような静かな鋭さ。
由良の前でだけは、
ちゃんとしていたいと思ってしまう。
弱っているところを、これ以上見せたくない。
背中越しに名前を呼べば、
たぶん振り返る。
振り返って、いつもの顔で「理永」と言う。
その声を聞いたら、
きっと何かが崩れる。
理永は足を止めたまま、
ほんの一瞬だけ、視線を逸らす。
――相談できない。
それがはっきりと、胸に落ちた。




