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『救済ではなく、継承の物語』― アストラル継承記 ―  作者: 龍の末裔
第37章|『冷たい赤』
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(1)消耗

朝から二件。午後に一件。


スーツのジャケットを脱いだとき、肩の奥に鈍い痛みが残っているのに気づいた。

理永は駅ビルのトイレで立ち止まり、鏡の中の自分を見る。


表情は整っている。

声も、受け答えも、破綻はなかったはずだ。


――問題は、なかった。


面接官が言葉を選んだ一瞬の間。

視線がわずかに逸れた瞬間。

評価を保留にした沈黙。


全部、拾ってしまう。


以前は、ここまで鮮明じゃなかった。

今は、相手の逡巡が皮膚に触れるみたいに伝わる。


わかりすぎる。


それが正確かどうかは分からない。

けれど、自分の中に流れ込んでくる情報の量が、明らかに増えている。


あの夜からだ。


石畳の硬さ。

乾いた風。

背後から射抜くような視線。


夢にしては、感触が残りすぎている。


自分の奥に、別の時間の層がある。

それが、静かに重なっている感覚。

以前の自分より、深いところまで沈める。

その代わり、境界が薄い。


面接官の緊張も、

隣の学生の焦燥も、

場の空気の重さも。

輪郭ごと、流れ込んでくる。


帰宅すると、何もしていないのに消耗している。

横になっても、神経だけが冴えている。

大学に行く余力は、正直あまりない。


ゼミの連絡は確認している。

提出物も出している。

やるべきことは、落としていない。


けれど、キャンパスに足を運ぶのは億劫だった。

人が多い場所は、今の自分には負荷が強い。


――少し休めば、戻る。

そう思って、数日が過ぎた。


だが、対面で処理しなければならない手続きができる。

仕方なく、大学へ向かった。


改札を抜け、キャンパスの門をくぐる。


ざわめきが、以前より重い。

自分の輪郭が、わずかに薄い。

足取りは普通のはずなのに、

どこか水の中を歩いているような感覚。


――ちゃんと、ここにいる。

意識しないと、足元が曖昧になる。


建物の前で立ち止まり、深く息を吸う。

冷たい空気が肺に入る。


そのとき。

視界の先に、見慣れた背中があった。


一瞬、思考が止まる。


肩の力が抜けるような安堵と、

同時に、喉の奥がひりつくような緊張。


由良だ。


その背中を見た瞬間、

胸の奥で何かが強く揺れた。


さっきまで感じていた重さとは、違う。

けれど、言葉にできる種類のものでもない。


――言えば、きっと気づかれる。


自分の反応の遅れも、

記憶の曖昧さも、

ときどき自分の輪郭が薄くなる感覚も。


由良はたぶん、もう半分は察している。


だからこそ。言えない。


「最近ちょっと変だよ」と言われた声が蘇る。

あの視線。

あの、見抜くような静かな鋭さ。


由良の前でだけは、

ちゃんとしていたいと思ってしまう。

弱っているところを、これ以上見せたくない。


背中越しに名前を呼べば、

たぶん振り返る。


振り返って、いつもの顔で「理永」と言う。


その声を聞いたら、

きっと何かが崩れる。


理永は足を止めたまま、

ほんの一瞬だけ、視線を逸らす。


――相談できない。


それがはっきりと、胸に落ちた。




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