(2)囁く記憶
ドアを開けると、由良が廊下の光の中に立っていた。
笑顔はいつも通り、柔らかい。
その姿を見ただけで、胸の奥がほどける。
けれど同時に、
理永の胸の奥で、何かがかすかに揺れる。
触れられるのは嬉しい。
幸せだと思う。
それなのに――
目が合うと、胸の奥の影がざわつく。
夢の残像。
あの人の気配が、まだ自分の中にいる。
「おはよう、ちゃんと眠れた?」
いつも通りの声。
理永は一瞬だけ視線をそらす。
そのわずかな間。
触れた指先から、ほんの少しだけ力が抜ける。
ほんの少し。
自分でも気づかないほどの隙間。
由良は、それに気づく。
瞳が、かすかに揺れる。
一度、同じものを見たことがある。
何も言わないまま、
自分の内側に何かを抱え込んで、
静かに距離を作っていく気配。
あのときと、似ている。
由良の手が、わずかに止まる。
一拍。
止めれば壊れる。
問いただせば、決定的になる。
知っている。
だから、何も言わない。
「……そっか」
短い声。
そこに滲んだのは理解ではなく、
受け止めるしかないという覚悟だった。
理永の胸の奥が、ちくりとする。
触れてほしい。離れたくない。
それなのに、深く見つめられると、
何かが露わになりそうで怖い。
――きれいに終わらせれば、傷つかない。
どこからか、そんな囁きが浮かぶ。
違う、と心の奥で否定する。
それでも、うまく目を合わせられない。
由良は、その揺れを感じ取る。
追わない。
握り直さない。
ただ、指先の温度だけを残す。
「就活、うまくいってないの?」
声音は穏やかだが、
少しだけ低い。
「うん……ちょっと疲れてるだけ」
嘘ではない。
けれど、それだけでもない。
由良は頷く。
問いたださない。
踏み込まない。
離れていく可能性を、
否定しないまま隣に立つ。
それが、今の由良の選び方だった。
やがて立ち上がる。
「無理するなよ」
いつも通りの声。
玄関の扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
静かになった部屋で、理永は小さく息を吐いた。
ほっとしたのか。
緊張していたのか。
自分でも分からない。
自分の手を見る。
さっきまで温もりがあった場所。
まだ、少しだけ残っている。
それでも。
指先は、わずかに冷たかった。
―――――――――――――――――――
(視点:由良)
廊下を歩きながら、由良は一度だけ目を閉じる。
あの隙間。
指先から抜けた、ほんのわずかな力。
同じ温度を、昔、失った。
あのときは、気づいていながら
手を伸ばせなかった。
今も、伸ばさない。
縋れば壊れる。
縛れば終わる。
だから、隣に立つ。
また見失うかもしれない。
それでも――
今は、まだ隣にいたい。




