(1)揺れる影
(理永の家を尋ねる前夜・視点︰由良)
理永を家まで送った帰り道。
夏の空気はぬるい。
自分の体温は、人より低い。
それは分かっている。
けれど。
さっき触れた理永の指先は、 それよりも冷たかった。
――ありえない。
人間の体温は、もっと高い。
吸血鬼である自分より、 生命の熱を持っているはずだ。
なのに。
鼓動が、浅い。
血の巡りが、薄い。
“匂い”が、少し違った。
由良は立ち止まる。
就活の疲れ?
睡眠不足?
そんな程度ではない。
もっと、内側から。
何かが、削られている。
「……理永」
名前を呟く。
胸の奥が、ざわつく。
自分はずっと、人間のふりをしてきた。
大学も、友人も、就活も。
全部、理永の隣にいるためのものだ。
その理永が、今。
自分の知らないところで、何かに触れている。
それが一番、気に入らない。
由良の瞳が、わずかに細くなる。
これは、偶然ではない。
何かが、触れている。
そうとしか思えない。
見えない何かが。
―――――――――――――――――――
(翌朝・視点︰理永)
朝。目を開けた瞬間、息が浅いことに気づいた。
夢を見ていた。
はっきりと。
忘れられないほど、鮮明に。
天井を見上げたまま、理永はしばらく動けない。
体が重いのとは違う。
――輪郭が、少し曖昧だ。
そんな感覚。
眠ったはずなのに、何かを持ち帰っている。
胸の奥に、消えない感情が沈んでいる。
信じたいのに、信じきれない。
好きなのに、疑ってしまう。
それでも。
最後に残ったのは、愛だった。
「……どうして」
小さく漏れる。
あれは夢だ。
自分の記憶じゃない。
そう思おうとする。
けれど。
胸の奥が、静かに否定する。
――それでも、あなたが好き。
その響きが、消えない。
理永はゆっくりと起き上がる。
時計を見る。
時間が飛んでいる気がした。
数分か、もっとか。
思考が一瞬、空白になる。
最近、増えた。
ほんの数秒、意識が抜け落ちる。
でも倒れるわけでもない。
ただ、戻ってくる。
「疲れてるだけ」
そう言い聞かせる。
就活もある。
眠りも浅い。
理由はある。
あるはずだ。
机の上には、昨日書きかけの書類。
文字が、どこか他人の筆跡に見える。
ペンを握る指先が冷たい。
夢の中で。
『あの人』は、笑っていた。
泣かずに。縋らずに。
由良を責めずに。
ただ、祝福を選んだ。
その瞬間。
理永は、思ってしまった。
――それが一番、誰も傷つかない。
心臓が強く打つ。
止めなきゃ、とは思わなかった。
分かってしまった。
そこまで思考が進んで、理永は手を止める。
「違う」
小さく呟く。
違う。
私は、そんなふうに逃げたりしない。
……本当に?
胸の奥に、もう一つの温度がある。
静かで、揺れない。
それは自分の感情のはずなのに、
どこか他人のようでもあった。
コンコン、と軽い音がする。
寮の廊下。
誰かが部屋をノックしている。
「理永? 起きてるか」
由良の声に、胸が跳ねる。
一瞬、息が止まる。
嬉しい。
でも同時に、夢の残像が重なる。
――もし、疑ってしまったら?
――もし、信じきれなかったら?
それでも。
好き。
……そう思いたい。
理永は立ち上がる。
鏡を見る。
顔色が少し悪い。
「ちょっと待ってね」
コンシーラーとファンデで顔色を隠す。
笑顔を作る。
崩れない。言わない。
ドアノブに手をかける。
冷たい。
深呼吸をひとつ。
扉を開ける。
「おはよう」
声は、いつも通りだった。
けれど。
由良の目を見た瞬間、
胸の奥で、誰かが静かにささやいた。
――きれいに終わらせれば、傷つかない。
理永は、ほんの一瞬だけ、視線を逸らした。
それは本当に、瞬きほどの時間だった。
それでも、
由良は、そのわずかな揺れを見逃さなかった。




