(1)小さなずれ
日常は、いつも通りに流れている。
講義室の窓から差し込む光。
黒板に走る白い音。
ノートをめくる紙の気配。
すべてが整っている。
それなのに。
理永は、ペンを持つ手を止めた。
今、何を書いていたのか分からなくなった。
視線を落とすと、ノートにはきちんと文字が並んでいる。
自分の字だ。
けれど、どこか他人の筆跡のように見える。
胸の奥が、ざわつく。
理由はない。
昨夜の夢は、ほとんど思い出せないはずだ。
なぜか
「止めなければ」
という感覚だけが、残っている。
何を?
誰を?
そこから先が、曖昧だ。
ふいに、教室のどこかで椅子が軋んだ。
その小さな音に、体がびくりと反応する。
一瞬。
視界の端に、わずかに色がにじんだ気がした。
瞬きをすると、何もない。
深呼吸する。
大丈夫。
疲れているだけだ。
隣の席から、控えめな声がする。
「難しい?」
由良だった。
理永は顔を上げる。
柔らかい視線。
いつもの穏やかな表情。
「ううん。ちょっとぼんやりしてただけ」
自然に笑えた、と思う。
由良はそれ以上追及しない。
けれど、ほんの一瞬だけ、理永の目元を見つめた。
その視線が離れるまでのわずかな時間が、
なぜか長く感じた。
講義が終わる。
立ち上がったとき、足元が少しふらつく。
ほんの一瞬だけ。
由良が手を伸ばしかけて、止める。
触れそうで、触れない。
「大丈夫?」
「うん。本当に」
本当に――?
言葉にした瞬間、胸の奥に小さな違和感が落ちた。
何かが、ほんの少しだけずれている。
けれど、それが何なのか、まだ分からない。
窓の外では、初夏の風が静かに揺れている。
隣を歩く由良の影が、わずかに重なる。
その距離は、昨日と同じはずなのに。
理永は、自分だけが半歩ずれているような気がした。




