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(3)触れたもの

その日も、いつものように由良の家で過ごしていた。


ノートを広げ、参考文献に印をつける。

由良はキッチンでお湯を沸かしている。


静かな音だけが、部屋に満ちていた。


ふいに、軽い足音がする。


「ミケ、だめ」


振り向いたときには、もう遅かった。


ローチェストの上を、しなやかな影が横切る。

棚の端。

小さく揺れる宝石箱。


「あ――」


落ちる。


そう思った瞬間、理永は立ち上がっていた。


咄嗟に伸ばした手が、箱の側面を支える。


かた、と小さな音。


それだけで済んだ。


「……よかった」


胸をなで下ろしながら、両手でそっと元の位置へ戻す。


指先が、表面に触れたまま。


ひやり、とした。


思っていたよりも、ずっと冷たい。


春の室温の中で、不自然なくらいに。


一瞬。


ほんの一瞬だけ、胸の奥がざわついた。


――知っている。


なぜか、そう思った。


けれど、何を?


懐かしいような、

でも思い出せない感覚。


知らないはずなのに、

触れたことがある気がする。


心臓が、ひとつ大きく脈打つ。


「理永?」


キッチンから由良の声がする。


その音で、感覚がすっと引いた。


「大丈夫。ミケが落としそうになって」


何事もなかったように答える。


由良が戻ってきて、宝石箱を一瞥する。


「……ありがとう」


短い言葉。


本当に大切なものを守られたときの、静かな安堵が滲んでいた。


「大事にしてるみたいだから、気をつけないとね」


何気なく言うと、由良は一瞬だけ視線を止める。


けれど、すぐにいつもの穏やかな表情に戻った。


「うん。……そうだね」


それ以上は、何も言わない。


理永も、何も聞かない。


ただ。


指先に残る、あの冷たさだけが、

かすかに記憶に引っかかっていた。


部屋は変わらず静かで、

春の風もやわらかい。


けれど。


ほんのわずかに、何かが触れた。


それだけは確かだった。




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