(1)春の穏やかさ
春の風は、冬の名残をすっかり連れ去っていた。
キャンパスの桜は散りはじめ、淡い花びらが石畳にやわらかく広がっている。
三年生になったという実感はまだ薄いけれど、時間だけは確かに前へ進んでいた。
「お疲れ」
隣から静かな声がして、理永は顔を上げる。
由良がいつもの穏やかな目でこちらを見ていた。
付き合いはじめて、まだ数か月。
隣にいるだけで、少しだけ落ち着かない。
でも、その落ち着かなさが嬉しい。
「なあー!」
やけに明るい声が飛んできた。
振り向くと、春の日差しの中でひときわ目立つ桜色の髪が揺れる。
湊だ。
人混みの中でも簡単に見つかるその髪は、当然ながら周囲の視線も引き連れてくる。
「三年生おめでとう、冬の告白成功組!」
わざと声を張る。
「ちょ、ちょっと……!」
理永は思わず周囲を見回す。
近くのテーブルから、ちら、と視線が飛ぶ。
ひそひそと小さな笑い声。
湊はまったく気にしない。
「え、なにその反応。今さら隠す? 無理無理」
「隠してないけど……!」
余計に顔が熱くなる。
由良は否定もせず、静かに理永を見るだけだ。
その落ち着きが、さらに恥ずかしい。
湊は肩をすくめる。
「いやぁ、春だねえ。見てるこっちが照れるわ」
「湊くん!」
キャンパスはいつもより騒がしくて、
風はあたたかくて、
未来の話でざわめいている。
その中心で、理永の心臓だけが少し速い。
何も起きないはずの春。
ただ、隣にいるだけで、こんなにも満たされる。
―――――――――――――――――――
その春から、由良の家で過ごす時間が自然と増えていった。
三年生になれば、卒論の準備も始まる。
外に出かけるより、落ち着いて机に向かう時間の方が長くなるのは当然だった。
「今日はこっち、使っていいよ」
由良の部屋の机には、もうひとつ椅子が置かれている。
いつの間にか“理永用”みたいになっていた。
窓を開けると、やわらかい風がカーテンを揺らす。
遠くで小鳥の声がする。
理永はノートを広げ、参考文献に目を落とす。
向かいでは、由良が静かにペンを走らせている。
ときどき目が合う。
そのたびに、どちらからともなく少しだけ笑う。
付き合いたての、まだ少しぎこちない距離。
でも、同じ空間で、同じ時間を過ごしているという実感が、胸の奥をあたためる。
「進んでる?」
由良が顔を上げる。
「……まあまあ」
「嘘だな」
「うるさい」
小さなやり取り。
それだけで、部屋の空気は柔らかくなる。
夕方になると、由良が紅茶を淹れてくれる。
湯気の立つカップを受け取ると、指先がほんの少し触れた。
その一瞬だけ、心臓が跳ねる。
まだ、手をつなぐことにも少し勇気がいる。
でも、触れ合うたびに、確かに愛情は伝わってくる。
派手なデートはない。
特別な出来事もない。
それでも。
春の光の差す部屋で、
ふたり並んで机に向かう時間は、
どこまでも穏やかだった。
卒論のことも、来年のことも、
その先のことさえ、まだ曖昧なまま。
まるで、この先も当たり前に続いていくみたいに。




