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『救済ではなく、継承の物語』― アストラル継承記 ―  作者: 龍の末裔
第29章|秋の体温
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(2)暮らしの温度

(視点:理永)

大学の帰り道。


秋の風が少し冷たい。

吐く息が、わずかに白い。


(今日は、鍋にしようかな……)


そう思った瞬間。


透明な氷の音が、ふいに胸の奥で鳴った。


——からり。


広いキッチン。

琥珀色のアイスティー。

「楽しみにしています」と、静かに言った声。


あのとき交わした、小さな約束。


『……今度、何か作りますよ』


まだ果たしていない言葉が、

あたたかく胸の奥で息をしている。


理永は紙袋を抱え直した。


今日の夕飯は、自分のため。


でも。


(いつか、あのキッチンで)


そう思うだけで、

指先がほんのりと熱を持つ。



―――――――――――――――――――


駅前の小さな商店で、かごを手に取る。


大根、にんじん、きのこ。

出汁用の昆布も忘れない。


秋らしいものを、と考えている自分に気づいて、少し頬がゆるむ。


(喜んでくれるかな)


ただそれだけで、選ぶ時間が楽しい。


ビニール袋を提げて歩く邸宅までの道のり。

街路樹の葉は赤や橙に色づき、足元でかさりと鳴った。


由良の家の前で、ほんの一瞬立ち止まる。


深呼吸。


チャイムを押すと、すぐに扉が開いた。


「いらっしゃい」


変わらない声。


それだけで、胸があたたかくなる。


「今日は本気だから」


袋を掲げて見せると、由良は小さく笑った。


「期待してる」


その声音が、少しだけ意地悪だ。


靴を脱いで上がると、空気がやわらかい。

どこか落ち着く匂い。


キッチンに立つと、由良が自然に隣に来る。


近い。


でも、前みたいに慌てない。


鍋に水を張り、昆布を沈める。

火を入れると、やがて小さな泡が立ち始める。


湯気がゆらりと立ち上る。


「へえ、ちゃんとしてる」


覗き込む声が耳元に落ちて、少しくすぐったい。


「当たり前でしょ」


そう返しながらも、心は穏やかだ。


ふと、足元に気配。


視線を落とすと、三毛猫がこちらをじっと見上げていた。


「……ミケ?」


「初対面だな」


由良がしゃがみ込む。


「この人、料理できるらしいぞ」


紹介の仕方が雑だ。


理永はそっと膝を折り、手を差し出す。


一瞬ためらったあと、ミケが鼻先を近づける。


くすぐったい感触。


「はじめまして、よろしくね」


小さく笑うと、ミケはそのまま足元にすり寄った。


それを見て、由良が静かに笑う。


その横顔を見た瞬間。


胸が、あたたかく満ちる。


夏のような、焦る熱じゃない。


ここにいていいと、思える温度。


鍋の湯気が、ふたりの間をゆるやかに包む。




鍋がことことと音を立てる。


蓋を開けると、白い湯気がふわりと立ちのぼった。


出汁のやわらかな香り。

きのこの匂い。

ほんのり甘い大根。


「……ちゃんと、秋だ」


由良が小さく呟く。


理永は思わず笑った。


「季節感、大事だから」


テーブルに鍋を運ぶ。

向かい合って座る距離が、もう不自然じゃない。


器に具材をよそう。


「いただきます」


声が重なる。


少し熱い。

けれど、その熱が心地いい。


「うまい」


ぽつりと落ちた言葉。


それだけで、胸がじんわりとあたたかくなる。


(ああ、よかった)


夏のころは、

隣にいるだけで鼓動が跳ねて、

触れられるたびに思考が止まっていた。


今も、ドキドキはする。


でも違う。


鍋から立つ湯気みたいに、

やわらかくて、逃げなくて、

ただそこにある熱。


「もっと食べる?」


自然にそう聞いている自分に気づく。


「うん」


由良は器を差し出す。


そのとき、指先が触れた。


ほんの一瞬。


けれど、どちらも慌てない。


視線だけが合う。


微笑む。


それだけで、胸の奥がふわりと満ちる。


事件じゃない。

特別な演出もいらない。


ただ、隣にいる。


それがうれしい。


ミケが足元に丸くなっている。


窓の外では、紅葉が静かに揺れている。


「……また、来てもいい?」


理永は小さく言う。


約束ではなく、確認でもなく。

ただ、確かめるみたいに。


由良は少しだけ目を細めた。


「理永が来たいなら、いつでも」


そんなふうに言われたら、帰れなくなる。


理永は静かに笑う。


「じゃあ、また来る」


湯気の向こうで、

ふたりの距離がほんの少しだけ縮まった。


箸が器に触れて、かすかな音を立てる。


足元で、ミケが小さく喉を鳴らし。


窓辺では、風に押された紅葉が、かさりと揺れる。


誰も急がない。

誰も離れない。



秋の体温は、やさしく、確かに育っていく。


窓の外では、紅葉が揺れていた。


湯気の向こうで、

ふたりの距離がほんの少しだけ縮まった。


恋は、急がなくていい。


秋の体温は、やさしく、確かに育っていく。


窓の外で、紅葉がまたひとひら揺れた。

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