(2)暮らしの温度
(視点:理永)
大学の帰り道。
秋の風が少し冷たい。
吐く息が、わずかに白い。
(今日は、鍋にしようかな……)
そう思った瞬間。
透明な氷の音が、ふいに胸の奥で鳴った。
——からり。
広いキッチン。
琥珀色のアイスティー。
「楽しみにしています」と、静かに言った声。
あのとき交わした、小さな約束。
『……今度、何か作りますよ』
まだ果たしていない言葉が、
あたたかく胸の奥で息をしている。
理永は紙袋を抱え直した。
今日の夕飯は、自分のため。
でも。
(いつか、あのキッチンで)
そう思うだけで、
指先がほんのりと熱を持つ。
―――――――――――――――――――
駅前の小さな商店で、かごを手に取る。
大根、にんじん、きのこ。
出汁用の昆布も忘れない。
秋らしいものを、と考えている自分に気づいて、少し頬がゆるむ。
(喜んでくれるかな)
ただそれだけで、選ぶ時間が楽しい。
ビニール袋を提げて歩く邸宅までの道のり。
街路樹の葉は赤や橙に色づき、足元でかさりと鳴った。
由良の家の前で、ほんの一瞬立ち止まる。
深呼吸。
チャイムを押すと、すぐに扉が開いた。
「いらっしゃい」
変わらない声。
それだけで、胸があたたかくなる。
「今日は本気だから」
袋を掲げて見せると、由良は小さく笑った。
「期待してる」
その声音が、少しだけ意地悪だ。
靴を脱いで上がると、空気がやわらかい。
どこか落ち着く匂い。
キッチンに立つと、由良が自然に隣に来る。
近い。
でも、前みたいに慌てない。
鍋に水を張り、昆布を沈める。
火を入れると、やがて小さな泡が立ち始める。
湯気がゆらりと立ち上る。
「へえ、ちゃんとしてる」
覗き込む声が耳元に落ちて、少しくすぐったい。
「当たり前でしょ」
そう返しながらも、心は穏やかだ。
ふと、足元に気配。
視線を落とすと、三毛猫がこちらをじっと見上げていた。
「……ミケ?」
「初対面だな」
由良がしゃがみ込む。
「この人、料理できるらしいぞ」
紹介の仕方が雑だ。
理永はそっと膝を折り、手を差し出す。
一瞬ためらったあと、ミケが鼻先を近づける。
くすぐったい感触。
「はじめまして、よろしくね」
小さく笑うと、ミケはそのまま足元にすり寄った。
それを見て、由良が静かに笑う。
その横顔を見た瞬間。
胸が、あたたかく満ちる。
夏のような、焦る熱じゃない。
ここにいていいと、思える温度。
鍋の湯気が、ふたりの間をゆるやかに包む。
鍋がことことと音を立てる。
蓋を開けると、白い湯気がふわりと立ちのぼった。
出汁のやわらかな香り。
きのこの匂い。
ほんのり甘い大根。
「……ちゃんと、秋だ」
由良が小さく呟く。
理永は思わず笑った。
「季節感、大事だから」
テーブルに鍋を運ぶ。
向かい合って座る距離が、もう不自然じゃない。
器に具材をよそう。
「いただきます」
声が重なる。
少し熱い。
けれど、その熱が心地いい。
「うまい」
ぽつりと落ちた言葉。
それだけで、胸がじんわりとあたたかくなる。
(ああ、よかった)
夏のころは、
隣にいるだけで鼓動が跳ねて、
触れられるたびに思考が止まっていた。
今も、ドキドキはする。
でも違う。
鍋から立つ湯気みたいに、
やわらかくて、逃げなくて、
ただそこにある熱。
「もっと食べる?」
自然にそう聞いている自分に気づく。
「うん」
由良は器を差し出す。
そのとき、指先が触れた。
ほんの一瞬。
けれど、どちらも慌てない。
視線だけが合う。
微笑む。
それだけで、胸の奥がふわりと満ちる。
事件じゃない。
特別な演出もいらない。
ただ、隣にいる。
それがうれしい。
ミケが足元に丸くなっている。
窓の外では、紅葉が静かに揺れている。
「……また、来てもいい?」
理永は小さく言う。
約束ではなく、確認でもなく。
ただ、確かめるみたいに。
由良は少しだけ目を細めた。
「理永が来たいなら、いつでも」
そんなふうに言われたら、帰れなくなる。
理永は静かに笑う。
「じゃあ、また来る」
湯気の向こうで、
ふたりの距離がほんの少しだけ縮まった。
箸が器に触れて、かすかな音を立てる。
足元で、ミケが小さく喉を鳴らし。
窓辺では、風に押された紅葉が、かさりと揺れる。
誰も急がない。
誰も離れない。
秋の体温は、やさしく、確かに育っていく。
窓の外では、紅葉が揺れていた。
湯気の向こうで、
ふたりの距離がほんの少しだけ縮まった。
恋は、急がなくていい。
秋の体温は、やさしく、確かに育っていく。
窓の外で、紅葉がまたひとひら揺れた。




